2024年1月21日(日) 降誕節第4主日・地区講壇交換礼拝
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   472
主の祈り
交読詩編  詩編1篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第1章12~15節
説  教  「神の国は近づいた」
賛  美   57
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は都合によりございません〕

〔説教要旨〕

説教者  武蔵豊岡教会牧師 栗原 清

 主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、霊は主を「荒れ野に送り出し」ました。この「霊」はギリシャ語のプネウマで、目に見えぬ神様の力や働きを意味します。旧約聖書の創世記2章7節で、神様が地の塵で神の形に似せて作られた人の鼻から息(ヘブライ語「ルーアハ」。風、気、息を意味)を吹き入れて命を与えますが、その神の息がプネウマの語源です。それゆえヨブ記第1章21節で「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と、命を与え奪うのは神様であることを教えています。人は単に生きているのではなく、神様の霊によって生かされています。人は今与えられているものが当たり前、当然と思う傾向があります。そのような心は当たり前のことに喜べません。しかし、今を生かされることは当たり前でないことに気づかされるならば、今を生かされるだけで豊かな神様の恵みや祝福を感謝することができるようになり、神様の祝福や恵みを一つ一つ数える喜びに満たされます。
 その意味で、主イエスが霊によって厳しい荒れ野へ導き出されて40日間留まることは、厳しい環境に身を置いて、当たり前のように享受している神様の恵みや慈愛を深く思うためでした。荒れ野に留まることは、生と死の狭間に置かれることを意味し、そこに身を置くことで、主イエスは今を神様に生かされている幸いと、日々当たり前のように与えられている多くの恵みを確認しました。しかし同時に主イエスは、荒れ野でサタンから「誘惑」を受けられました。主イエスは荒れ野で40日間断食し衰弱し、心は空腹に満ちていました。サタンはその飢える「心の隙間」に誘惑します。マルコでは省略されますが、マタイとルカ福音書では、主イエスがサタンの3度の誘惑を「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」と3度、申命記の御言葉で完全に退けました。サタンに対抗し完全に打ち勝つことができるもの、それが聖書の御言葉です。主イエスが3度聖書の御言葉で誘惑に完全勝利したように、御言葉は私達の心の隙間にささやくサタンの誘惑から完全に勝利します。そして御言葉は、私利私欲を満たそうとする人生から「主なる神様を中心とする生き方」へ新しく転換させます。御利益信仰のように神様を自分に仕えさせるのではなく、自分が神様の僕・器とされ神様の御心に生かされる人生への転換は、「サタンを離れ」させます。私達の救い主は御言葉で、サタンに完全に勝利し永遠の命に生きておられるからです。
  「ヨハネが捕らえられた後」とあります(14節)。このバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのが主イエスでした。人々に悔い改めを勧めるバプテスマのヨハネは、多くの人の共感を呼び、人々は彼から洗礼を受けました。しかし、ヨハネは当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス王に捕らえられ首をはねられました。この不条理を聞いた主イエスは、救い主としての歩みを始めるために故郷であるガリラヤに帰り、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と、宣教の第一声を上げました。それは、不条理な時代は終わり、神様の直接支配が始まることを意味しています。主イエスが語る「時は満ち」は、時の知らせです。来たるべき時の到来は、主イエスが時は満ちと伝えるように今、神の国が開かれ、形作られ、実現しつつあります。その主の宣言は、「悔い改めて福音を信じる」ことですべての人が神の国へ招かれます。私たちは今、悔い改めてイエス・キリストの福音、聖霊による御言葉、すなわち、主イエス・キリストの十字架の罪の赦しと、主の復活に示された永遠の命に至る神の国の希望に招かれましょう。
 私たちは、神様に敵対する、様々な心の隙間につけ入る誘惑に陥り、的外れに生きてしまうからこそ、荒れ野の御言葉が必要不可欠です。荒れ野とは、御言葉が取り次がれ天使の仕えるところです。すなわち、私たちにとって、自分の家を出て教会の礼拝へ招かれることです。主は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と私たちを御言葉で導き守り、聖霊の働きにより福音の恵みに与からせ、神の国へ通じる永遠の命へと救い出されます。私たちは、この御言葉の救いに大いに喜び、サタンの誘惑に完全勝利して参りましょう。