2024年1月28日(日) 降誕節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   204
主の祈り
交読詩編  詩編84篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   エフェソの信徒への手紙第3章5~9節
説  教  「教会は礼拝し福音を告げる」
          〔日本基督教団信仰告白より〕
賛  美   405
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 日本基督教団信仰告白の前半部分の第4段落に入っています。「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣(の)べ伝へ、バプテスマ〔洗礼〕と主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」。この段落は、教会についての信仰告白です。教会とは何か。教会とは何をするのかが示されています。本日の説教では「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え」を心に留めて、エフェソの信徒への手紙の使徒パウロの言葉に耳を傾けたいと思います。
 第3章1節にこうあります。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロ」。エフェソの信徒への手紙は獄中書簡で、ローマで書かれたと考えられています。「キリスト・イエスの囚人」とパウロが言っているのは、自分がキリストに捕らえられたことと同時に、福音を宣べ伝えたことで実際に囚われの身となっていることを合わせて言っているのでしょう。教会にとって、自分たちの伝道者・牧師が逮捕され投獄されるとは、何と厳しい苦難でしょう。パウロ自身も、苦しみがないとは言っていません。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(エフェソ3:13)。苦難なのです。その苦難を見て、教会が落胆しかねない。ですからパウロは、教会を励まします。この苦難は苦難で終わらず、あなたがたの栄光だ、と。栄光とは、神が神であられることです。共に、苦難を通らされるけれども、そこに神が生きて働くことが分かる、ということです。私たちも経験しているのではないでしょうか。
 先日は、埼玉地区講壇交換礼拝で武蔵豊岡教会に説教の奉仕をし、主の祝福をいただきました。礼拝の後、武蔵豊岡教会の創立の経緯を教えていただき、大変興味深く聴きました。西川口教会にも栄町伝道所から始まった固有の歴史があります。私たちもそれぞれにキリストに出会い、救われ、導かれて、今があります。
 使徒パウロも、自分がどのようにして神に導かれたかを語ります。「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません」(2節)。「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」(3節)。「初めに手短に」とは、この手紙の第1章~第2章でしょうが、手短とは思えないほど豊かな内容です。神の「秘められた計画」が啓示された。それは「キリストによって実現される計画」(4節)です。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたち〔ユダヤ人、イスラエルの民〕と一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということ」(6節)。神がかつてアブラハムに約束された祝福に、異邦人もキリストによって入れられました。キリストの体である教会に、ユダヤ人も異邦人も、つまり、私たちも属するのです。この福音を告げ知らせるために、神は人を選ばれます。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました」(7節)。「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました」(8節)。これは単なる謙遜ではなく、「罪人の中で最たる者」(テモテ一1:15)という自覚から来ています。主の選びを信じ、主に信頼していますから、「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(12節)。だから、落胆しません。礼拝において、大胆に神に近づくことができます。