2024年2月11日(日) 降誕節第7主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   543
主の祈り
交読詩編  詩編23篇
祈  祷
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネの黙示録第3章14~22節
説  教  「愛と希望に生きる教会」
        〔日本基督教団信仰告白より〕
賛  美   430
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔都合により音声データは一部カットしています〕

〔説教要旨〕 

 日本基督教団信仰告白の前半部分の第4段落に入っています。本日の説教では、洗礼と主の晩餐〔聖餐〕との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主イエスの再臨を待ち望む教会であることを心に留めて、ヨハネの黙示録の言葉に耳を傾けたいと思います。
 「アーメンである方。誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」とはキリストです。キリストは常に真実な、創造の神であられます。そのキリストが言われます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(16節)。これは叱責の言葉に聞こえます。もちろん冷たい行いや信仰でもよいと言っているのではありません。19節に「熱心に努めよ」とある通りです。なまぬるい信仰は主イエスの口に合わないのです。なぜ叱責の言葉が語られたのでしょうか。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)。ラオディキアの町は物質的に豊かで、金融業、羊毛や衣服の製造、目薬製造が盛んでした。ラオディキア教会も物質的に豊かであったと思われます。ところが物質的に満たされたとき、信仰生活において大切なものを見失ってしまい、霊的には非常に貧しくなっていたのでした。
 自分の惨めさについては、使徒パウロの嘆きの言葉「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)が思い出されます。パウロは、自分には善を行いたい意志があるのに、自分の中にある罪のためにそれができない、と告白しています。罪のために自己分裂状態にあり、自分ではどうすることもできないのです。この惨めな自分を救ってくれるのはキリストだけです。キリストの救いしかありません。ですからパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(ローマ7:25)と告白しているのです。
 ラオディキア教会の人々は、生ける神の前にいかに自分が惨めであるかを見失っており、「満ち足りている、不足はない」と言っていました。主イエスは人々を福音へと招かれます。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(18節)。実際にお金を払うというよりも、聖霊の恵みを受けなさい、ということです。ラオディキアの産業を背景に語られているイメージ豊かな言葉です。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。主イエスは心の扉をたたいておられます。戸を開けるのを待っておられます。本日、説教の後で与かる主の食卓は、この主イエスとの食事を示しています。親しい愛の交わりの食卓に招かれている私たちなのです。さらに、主イエスは破格の恵みをくださいます。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(21節)。私たちに信仰による勝利を与え、本来神の御子がお座りになる座に、いっしょに座ろうと言ってくださるのです。惨めな罪人にすぎない者を、愛し、赦し、ご自分の座に共に座らせてくださるのです。