2024年2月18日(日) 復活前第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 307(2回)
主の祈り
交読詩編 詩編37:1~6
祈 祷
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第12章12~26節
説 教 「主の栄光の始まり」
賛 美 575
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
今年は2月14日から受難節(レント)に入りました。今年の受難節では、ヨハネによる福音書の受難週の出来事を御言葉から聴きたいと思います。受難週の最初の日曜日は「棕梠の主日」と呼ばれています。主イエスがエルサレムに入城したことを記念する日です。本日は、ヨハネによる福音書のエルサレム入城の出来事を見ていきます。
「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た」(12~13節)。以前使っていた口語訳聖書では「棕梠の枝」でした。支配者や有名な人を出迎えるとき、なつめやしの枝を用いたそうです。大勢の人々がこれほどまでに主イエスを歓迎して迎えたとは驚きです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(13節)〔詩編118篇25~26節の引用〕と、人々は叫び続けました。
「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。『「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って』」(14~15節)。「シオンの娘よ…」は、ゼカリヤ書第9章9節の引用です。ゼカリヤ書には、神が遣わされる救い主は、謙遜で、馬ではなくろばに、子ろばに乗って来られる平和の王であると、預言されています。主イエスがろばの子を見つけてお乗りになったとは、ご自分がゼカリヤ書に預言されている平和の王であるとの宣言でした。
滋賀県近江八幡市にあるアシュラムセンターを設立された榎本保郎先生を思います。榎本保郎先生は「ちいろば」という証の本を書かれました。また「旧約聖書一日一章」、「新約聖書一日一章」は、今も多くの人の信仰の養いとなっている書物です。榎本先生がご自分を「ちいろば」、つまり、小さなろば、と言われたのは、このエルサレムに入城された主イエスがろばの子に乗られた出来事からだと思います。自分は、主イエスをお乗せするちいろばである、主イエスの行かれるところどこにでも行き、主イエスとその御言葉を運んでいく。子ろばですから、未経験で未熟かもしれません。しかし、ゼカリヤ書の預言のとおり平和の王が来られるとき、子ろばが必要とされました。神の言葉の実現のために用いられたのです。他の福音書には、主イエスが弟子たちに命じて、「主がお入り用なのです」と言って、子ろばを引いてこさせたことが記されています。
平和の王の支配のもとにあるとき、平和の王の御言葉に聴き従うとき、私たちは最もよく生きることができるのです。
一方で、私たちは、同じ週の金曜日には、大勢の群衆が主イエスを「十字架につけろ」と叫んだことを知っています。その前に、弟子の一人ユダが主イエスを裏切り、主イエスは弟子たちに見捨てられます。罪もない主イエスが不当な裁判で十字架にかけられることを知っています。主イエスはそれをもご存じで、人々の喜びの叫びを受け入れておられました。それは、主イエスがご自分の死の意味を分かっておられたからです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(23~24節)。一粒の麦とは主イエスご自身です。自分が死ぬことで、一粒の麦のように多くの実を結ぶことになるのです。それが、主イエスの栄光の始まりです。神の栄光とは、神が神であられることが明らかにされることですが、神は、御子イエスの十字架と復活の出来事を通して、神が生きておられることを明らかにされます。主イエスの救いを信じるとは、この私が、主イエスの死によって生かされる実である、と知ることなのです。