2024年2月25日(日) 復活前第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編8篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第13章1~11節
説  教  「この上なく愛して」
賛  美   487
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)


〔説教要旨〕

 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。「この上なく愛し抜かれた」は、別の訳では「極みまで愛された」「最後まで愛し通された」とあります。主イエスが弟子たちの足を洗われたこと、その後、捕えられたこと、裁きを受けたこと、十字架に架けられたこと、父なる神によって復活させられたこと、これら全ての出来事をとおして弟子たちが経験したのは、自分たちをこの上なく愛してくださった主イエスの愛であるということです。弟子たちはイエスの愛を、後で、分かりました(7節)。弟子たちがイエスの愛を今、理解できなくても、既に、イエスのこの上ない愛で愛されています。同じように私たちも今、主に極みまで愛されています。
 これほどまでにイエスに愛されていた弟子たちですが、その一人ユダに、悪魔が働きかけてイエスを裏切る考えを抱かせていました(2節)。聖書は、悪魔が働いている、と語ります。私たちはこのユダの姿に、罪とは愛を裏切ることなのだと知らされます。自分を愛してくれる人に背いてしまう、愛してくれる人を悲しませて傷つけてしまう、人間らしさを失ってしまう、それが罪です。悪魔は、私たちの弱いところやだめなところを見せて、希望を失わせようとします。しかし、悪魔が働いて罪を犯させるなら、私たちは戦うことができます。愛を見つければよいのです。愛のあるところでは、悪魔は働くことができないからです。
 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟られました(3節)。父なる神は御子イエスにすべてお任せになりました。イエスは父なる神のご意志に服従し、私たちのため救いを成し遂げられます。この「すべて」に先ほどのユダの裏切りも含まれています。一切が、御子キリストの支配の中にあるのです。ですからその意味で悪魔の企みは破られているのです。悪魔の働きは限定されたものなのです。
 主イエスは、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められました。弟子たちは驚きながらも、足を洗っていただいたのでしょう。しかしシモン・ペトロは黙っていることができませんでした。「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)とイエスに言いました。
 この後、イエスがペトロに語ったお言葉を心に刻みましょう。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。主イエスと私との関係は、ただ、主イエスに足を洗っていただいたことによって成り立つのです。私が何かを主イエスにしたからではないのです。主イエスに足を洗っていただいた者たちの集まりが教会なのです。
 そこでペトロが「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言いました(9節)。これは信仰深いような言葉です。しかしイエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清い」と言われました(10節)。主イエスがご自身の愛によって、全身を清めてくださったのです。私たちは、主イエスによって、全身が清くされた自分であると信じていくのです。
 主イエスは弟子たちに語られました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34~35)。「わたしがあなたがたを愛したように」が、本当に大切なことです。