2024年3月3日(日) 復活前第4主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   351
主の祈り
交読詩編  詩編121篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第17章1~5節
説  教  「私たちを救う祈り」
賛  美   502
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)


〔説教要旨〕 

 ヨハネ福音書第17章は、父なる神と子なる神イエスとの水入らずの対話を、弟子たちが傍で聞いているようなものです。この主イエスの祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれています。それは弟子たちのためであり、弟子たちを通してご自分(主イエス)を信じる人たちのために、イエスが執り成してくださっているからです。御父と御子が私たちの救いのために働いておられます。
 イエスは、弟子たちに別れの説教(ヨハネ福音書第13~16章)を語られた後、天を仰いで祈られました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(1節)。その栄光とは「すべての人を支配する権能」によって、御子が、父なる神が御子にゆだねられた人々に永遠の命を与えることです(2節)。次のイエスのお言葉を心に刻みましょう。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。「知る」とは体験し、生きることです。聖霊の助けがなければ、私たちは永遠の命をいただくことはできません。
 岩手県大船渡在住の医師でカトリック信徒の山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)という方がおられます。ご自分が暮らしている気仙地方の言葉を「ケセン語」と称して、福音書をギリシア語からケセン語に翻訳し出版されました。翻訳の際に気づいたことなども書物にされています。その本の中で、山浦先生は「永遠の命(ゾーエー・アイオーニオス)」を「いつでも、明るく活き活きと力強く喜びにあふれて生きること」と訳されました。すばらしい訳だと思います。この山浦先生の言葉と、主イエスの言葉「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(13節)が響き合います。自分からではなく、イエスの喜びが私たち一人ひとりに満ちあふれることが目当てです。そのために主イエスは御言葉をお語りになります。主イエスの言葉を聞いて従う人に、主イエスの喜びが満ちあふれます。
 主イエスの喜びに満たされた弟子たちのために、主イエスは祈ってくださいます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)。弟子たちも私たちも、かつては世に属するものでありましたが、父なる神によって世から選び出され、神のものとなり、御子イエスに与えられたものとなりました(6節)。主イエスを信じた者たちは、ある意味でイエスと同じ立場になります。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(14節)。「世」は主イエスを十字架に追いやる「世」です。主の弟子たちも「世」に憎まれるとは、この福音書が書かれた時代の現実であり、代々の教会やキリスト者が体験していることです。
 主イエスの弟子たち(教会)は、世に染まらず、世のただなかに身を置いて、世を救うという困難な使命を課せられています。ですからイエスが祈っておられます。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。…彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(17、19節)。ヨハネ福音書において「真理」とは主イエス・キリストです(ヨハネ14:6)。私たちが、イエスによって聖なる者、ささげられた者となるために、主イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として、ご自分をささげてくださいました。主イエスは、教会を通して神の御名をこれからも知らせられます。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(26節)。