2024年3月10日(日) 復活前第3主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   153
主の祈り
交読詩編  詩編36:1~10
祈  祷
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第18章1~11節
説  教  「裏切られるという杯」
賛  美   288
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカット〕

〔説教要旨〕 

 今年の受難節(レント)の間の主日礼拝では、ヨハネ福音書の受難週の出来事を味わっています。イエスは弟子たちと共にキドロンの谷の向こうにある園に行かれました(1節)。その園は、イエスが弟子たちと共に度々集まっておられたところです(2節)。弟子の一人イスカリオテのユダが、イエスを捕らえるためローマ軍の一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、園にやって来ました(3節)。
 イエスは、ご自分の身に起こることを何もかもご存じでした。イエスの十字架の出来事は人の目から見れば無力であり、十字架に追いやられたとよく語られます。しかし、神の目から見れば、私たち人間にとってかけがえのない救いの出来事でした。イエスは人に強いられて十字架に架けられたのではなく、自ら十字架に向かわれたのです。イエスが十字架から逃げようと思えば、このとき園に行かなければよかっただけのことです。しかし、イエスはいつもと同じように園に行かれました。ユダと兵士たちが来た時にも、イエスの方から「進み出て、『だれを捜しているのか』」と言われました(4節)。イエスは逃げも隠れもしておりません。
 ヨハネ福音書だけの記事ですが、イエスが「わたしである」と言われたとき、兵士たちや下役たちが後ずさりして地に倒れました(6節)。主イエスの御言葉の力が彼らを倒したのです。神の独り子であり、神そのものであられるイエスの言葉の力が垣間見られた出来事です。私たち罪ある人間は、そのままでは全能の神の前に立ってはいられない存在なのです。私たちは主イエスの前に立てるような者ではなく、主の言葉によって地に倒されてしまう者なのです。「わたしである」と3度記されています。聖書で「三」は完全数ですから、「わたしである」〔英語でI am〕との宣言は非常に重いのです。イエスは自らを「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として、ご自身を贖いとして、命をお献げになりますから、この後、彼らに身を任せられます。イエスは「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(8節)と言われました。「この人々」とは弟子たちです。「捕まえられるのは自分だけでよい」と弟子たちを守ってくださるのです。
 そのようにイエスに守られている弟子たちの一人、シモン・ペトロは何をしたでしょう。剣を持っていたので、大祭司の手下に打ってかかりました。イエスを守るためというより、ペトロは、恐れの余りに剣を振り回していたのではないかと思います。私たちも恐れによって動かされることがあります。何をしたらよいのか分からないのです。イエスは言われます。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)。苦しみの杯―愛する弟子に裏切られるという苦しみも含まれています―そして十字架の死という杯を、イエスは飲み干されます。父なる神のご意志を受け入れ、服従しておられるのです。
 イエスだけが捕らえられ、大祭司のしゅうとアンナスのところへ連れて行かれました。ペトロは彼なりにイエスに従い、大祭司の家の中庭に入ることができました。しかし、門番の女中に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われたとき、ペトロは「違う」〔I am not〕と言いました(17節)。しばらくして別の男から同じことを問われ、ペトロは再び「違う」と言いました(25節)。また別の人に問われたときにも、ペトロは打ち消しました。するとすぐ鶏が鳴きました。恐らくペトロは、そのことを予告したイエスの言葉を思い出したに違いありません(ヨハネ13:38)。やがてペトロは復活の主イエスの訪問を受けます。イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と3度問い、ペトロの罪を覆い、再び弟子として立ち上がらせてくださいました。