2024年3月24日(日) 復活前第1主日・棕梠の主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 280
主の祈り
交読詩編 詩編51:1~14
祈 祷
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第19章28~30節
説 教 「成し遂げられた主」
賛 美 313
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
受難節に、主イエスの十字架上の七つの言葉を黙想する、という教会の伝統があります(Ⅰ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」Ⅱ「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」Ⅲ「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」Ⅳ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」Ⅴ「渇く」Ⅵ「成し遂げられた」Ⅶ「父よ、私の霊を御手にゆだねます」)。
「渇く」(28節)は「喉が渇いた」ということですから、他の十字架上の言葉と比べると、私たちも日常で使っている言葉だといえます。十字架に架けられた者は、たいへん喉が渇くそうです。まことの神であられると同時に、まことの人として生き抜かれたイエスは、十字架の上で、人としての苦しみや痛みを、極みまで味わい尽くされたのです。
ヨハネ福音書では、言葉の中に深い意味や二重の意味が込められることがしばしばあります。イエスの「渇く」との言葉から、ヨハネ福音書第4章で、サマリアの女に語られたイエスの言葉を思い出します。人が井戸に水をくみに来ない真昼に、その女は井戸に来ました。そこにはイエスがおられ、「水を飲ませてください」とイエスのほうから声をかけられ、女との対話が始まりました。イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と約束されました(ヨハネ4:14)。イエスは、この女に以前5人の夫がおり、今連れ添っているのは夫ではないことを知って(ヨハネ4:17~18)、女の存在そのものが渇いていることを見抜いておられました。
先週の祈祷会で学んだイザヤ書の言葉に、昔も今も人間は変わらないのだな、と思わされました。神が陶工で、人間は陶器。人は陶工である神に造られたのに、「どうしてこんな自分なのだ」と造り主に不満を言っている、というのです。自分の親に向かって「なぜ自分を産んだのか」と訴えている、というのです(イザヤ45:9~10)。そう思っている人はたくさんいます。
造り主である神を見失った人間は、存在そのものが渇いているのです。神によって潤されない限り、人は、温もりが欲しい、もっと人から認められたい、もっとお金や物が欲しいなどと探し求め、満たされないままに、うろうろと迷ってしまうのです。
もう一箇所、ヨハネ福音書の御言葉を読みます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ6:37~38)。続いて「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた」(ヨハネ6:39)とあります。人間存在の渇きをいやしてくれる永遠の命に至る水、生きた水とは、神の霊です。人は、聖霊をいただいて、神によって潤されるのです。潤されるばかりでなく、その水は泉のように湧き出て、川となって流れ出て、他者を潤していきます。
このように約束された主イエスが、十字架の上で「渇く」と言われました。私たちの渇きを知り、私たちの渇きを取り除くために、主イエスは十字架の上で、私たち以上に渇きを味わい尽くしてくださいました。
「イエスは…『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(30節)。この「息を引き取られた」とは直訳すると「霊を渡された」です。このことは、聖霊を与える「しるし」であり、前触れです。父なる神の御心を成し遂げられたイエスの死は、聖霊を与えることを意味しているのです。