2024年3月31日(日) 復活節1主日・復活日
イースター礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   325
主の祈り
交読詩編  詩編16:7~11
祈  祷
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第20章1~18節
説  教  「復活の主による使命」
聖  餐   81
賛  美   328
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

※礼拝音声は聖餐部分をカットしています。

〔説教要旨〕 

 主イエスは復活されました。今、私たちが日曜日の朝に礼拝をささげているのは、主イエスが週の初めの日に復活されたからです。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までで、ユダヤ人は安息日に礼拝していました。一方、キリスト者はやがて、主イエスが復活された週の初めの日に礼拝をするようになりました。ですから主日礼拝は小さなイースター礼拝なのです。
 福音書の主イエスの復活の出来事を読むと、聖書には真実が書かれていると思うのです。なぜかというと、主イエスの弟子たちは皆、初めは、主イエスの復活を信じることができなかった、と書かれているからです。私たちも同じで、人間の経験や知識では復活を認めることができません。神から信仰をいただかなければ、イエスの復活を信じることはできないからです。
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(1節)。これは、マリアも主イエスの復活を信じられなかったことを示しています。イエスは弟子たちに、三度、ご自分の受難と死と復活を予告しておられました。女性の弟子たちも聞いていたはずです。しかし、イエスのお言葉が思い起こされることはありませんでした。
 ルカ福音書によればマグダラのマリアは、イエスに七つの悪霊を追い出していただいた人でした(ルカ8:2)。マリアは、イエスに癒された喜びと感謝をもって、イエスの宣教の旅に同行し、奉仕していました。そのイエスが、十字架に架けられて死なれたことは、マリアにとってたいへん大きな悲しみであったと思います。せめてお体の近くに行きたいと願い、安息日が終わって、イエスのご遺体が納められた墓に向かったのだと思います。墓に着いたマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見ました(2節)。イエスのお体がありませんでした。マリアは、ペトロともう一人の弟子のところに行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げました(2節)。ペトロともう一人の弟子は、墓に行き、墓が空になっていて、イエスの体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いが置いてあるのを見ましたが、家に帰っていきました。
 マリアの言葉もペトロたちの行動も人間の限界を示しています。空の墓を見て、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と語っています(13節)。それが空の墓を見た人間の判断です。しかし、墓が空になったのは、主イエスが復活され、墓から出られたためです。復活は、神が示されなければ人には信じられないのです。
 泣いているマリアに、復活されたイエスが声をかけられましたが、マリアはイエスだと分かりませんでした(14節)。イエスが「マリア」と名を呼ばれると、マリアは振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」(先生という意味)と言いました(16節)。マリアはイエスの声を聞いてイエスが生きておられると知りました。信仰は、キリストの言葉を聞くことから始まります。皆さんも、主イエスにご自分の名を呼ばれていることを信じてください。
 主イエスはマリアに使命を与えられます。福音の言葉を授けられます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。復活された主イエスは、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれます。弟子たちを、私たちを、神の子として受け入れてくださっているのです。主イエスの十字架と復活は、私たちを神の子とするためでした。復活の主イエスに出会い、新しくされたマリアは、主の言葉に従い、復活の証人とされました。