2024年4月8日(日) 復活節2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   333
主の祈り
交読詩編  詩編66:1~9
祈  祷
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第20章19~31節
説  教  「信じる者になりなさい」
賛  美   327
役員任職式
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

※礼拝音声は役員任職式部分をカットしています。

〔説教要旨〕 

 どの福音書の終わりにもイエスの復活の出来事が記されていますが、ヨハネ福音書の記事の特徴は、復活のイエスが一人ひとりに出会い、ふさわしく語りかけ、立ち上がらせてくださることです。先週の説教ではマグダラのマリアに、本日はトマスに、そして来週の礼拝ではペトロに語りかけられた出来事を見ます。
 教会の伝統では、本日の聖書箇所のヨハネによる福音書第20章24節以下を、イースターの1週間後の礼拝で朗読します。まさに、本日はその日に当たりました。イエスが復活されたのは週の初めの日の朝のこと。イエスが弟子たちを訪れたのは、その日の夕方のことでした(19節)。イエスがトマスに語りかけられたのは、それから8日後、1週間後のことでした(26節)。本日は、24節以下の、イエスとトマスとの出会いの出来事に集中して、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
 「十二人の一人でディディモ〔双子という意味〕と呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。レントからイースターにかけて、ヨハネによる福音書の説教を続けてきました。ヨハネ福音書の言葉は文字通りであると共に、深い意味が込められていることを知りました。ここでもそうです。トマスは他の弟子たちから離れて一緒にいなかったため、イエスにお会いできませんでした。ですから私たちは、主イエスの弟子の群れから離れず、共にいることが大切なのです。ご自分の弟子たちのところに主イエスは訪れてくださるのです。
 幸いにもトマスは戻ってきました。そこで他の弟子たちが、イエスが生きておられるとトマスに証言しましたが、トマスは受け入れませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)。トマスの不信仰や心の頑なさを感じますが、一方では、トマスは、他の人の言葉に流されず、分かったふりもしない、ここまで率直に言える人だといえます。トマスの中に自分を見る人もあるでしょう。私もそうです。
 さて、主イエスが最初に現れた日から「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(26節)。今度はトマスも他の弟子たちと共にいました。そこへ再び主イエスが訪れてくださいました。平和の挨拶を告げられ、イエスはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)。イエスは、どんな思いでトマスにこう語りかけられたのでしょう。トマスを責めているのでしょうか。そうではないと思います。主イエスは弟子たちを極みまで愛された方。トマスのためにも、友のために命を捨てる愛で愛してくださっています。トマスが信じる者となることを願っておられます。その愛の言葉であるはずです。イエスがトマスに、手を伸ばして私の傷あとに入れてみよ、と言われたのは、トマスの不信仰の罪を私が引き受ける、ということではないでしょうか。
 この言葉を聞いたトマスは、恐れおののいたと思います。主イエスは、私たちが語るどんな言葉も聞いておられます。おそらくトマスは倒れ込み、ひれ伏すようにして、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したのではないでしょうか。
 イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。日本の教会は、小さな群れですが、この「見ないで信じる幸い」に生かされています。この祝福を告げ知らせてまいりましょう。