2024年4月21日(日) 復活節4主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   472
主の祈り
交読詩編  詩編40:1~7
祈  祷
使徒信条
聖  書   ローマの信徒への手紙第10章9~12節
説  教  「信仰告白と救い」
賛  美   452
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 原則として月に1度の日本基督教団信仰告白に沿っての説教を再開します。教団信仰告白の前半部分が終わり、後半の使徒信条に入りますが、その前に本日は、信仰を告白するとはどういうことなのか、御言葉に聞きたいと思います。教団信仰告白は「我らは信じかつ告白す」と始まり、使徒信条の直前のところで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」とあります。使徒信条も「我は…信ず」と信仰を言い表しています。信仰者はどこに確信を持つべきなのか、が語られています。
 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(9節)。教会はここに立っています。「口で…」「心で…」とありますが、二つのことを言っているのではなく、心で信じていることを口で告白するということです。その人は救われている。口も、心も、信仰のために用いられます。神がイエスを死者の中から復活させられたことによって、神は、イエスが主であり、救い主であり、キリストであると私たちに示してくださいました。
 初代教会の時代「イエスは主である」と信仰告白することは、命がけでした。当時、ローマ皇帝を「主」と言うことを求められていたからです。使徒言行録を見ますと、主の弟子たちは聖霊を受けて、キリストの復活の証人とされ、当局が「語るな」と言っても、語らないではいられませんでした。
 2千年前の初代教会の頃だけではなく、数十年前の日本でも、キリシタンの時代でも、同じようなことがありました。「イエスは主である」との信仰告白は、存在をかけての言葉です。
 先日、テレビで東北ユースオーケストラの特別番組を観ました。東北ユースオーケストラは東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の若い人たちで構成されています。リーダーをしている一人の方の言葉が心に残りました。震災で、友人の妹が津波のために亡くなってしまった。自分より若い人が亡くなってしまい、自分は生きていていいのかと思った、というのです。その方は、災害を免れたのに「生きていて良かった」とは思えなかった。死の問題が突き付けられたのでした。地震や津波の災害の場合は、一度に大勢の人が被災して、死の問題に直面させられるのですが、本当は、人間には誰にでも死の問題はあるのです。ただ普段、考えていないし、見ようとしないだけです。小さい子供でも、人生の終わりが近い人でも、だれでも死の定めを逃れられません。私たちは、家族や親しい人の死に対して無力なのです。
 聖書は、死者は復活すると語ります。イエスは、死者の中からの復活の初穂となられた方です(コリント一15:20)。イエスは生きておられるのです。死に勝利された方が、私たちの救い主となられたのです。私たちも復活するという希望が与えられています。この歴史の中に打ちたてられた、ただ一度のキリストの救いの出来事、十字架と復活を信じることが本当に大切です。
 「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります」(11節)。これはイザヤ書第28章16節の引用です。私たちはキリスト者であっても、失望したと思われることはしばしばあります。けれども、信仰がない人のようには失望しないのです。痛みや嘆きを抱えて神の前に出て行くし、出られるのです。この礼拝がそうなのです。「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12節)。神の恵みは分け隔てなく備えられています。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(13節)。神は、「イエスは主である」と言い表す人ならだれにでも、失望することのない恵みを豊かに与えてくださるのです。