2024年4月28日(日) 復活節5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   352
主の祈り
交読詩編  詩編119:129~136(ペー)
祈  祷
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第1章1~5節
説  教  「初めに言(ことば)があった」
賛  美   403
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 今年は、レント(受難節)からイースターにかけて、ヨハネによる福音書の御言葉から説教をしてきましたが、改めて第1章から説教を始めます。
 第1章に入る前に、ヨハネによる福音書の執筆目的を確認したいと思います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:31)。ヨハネ福音書は、聴き手(読者)が、イエスが神の子キリスト(メシア)であると信じるために、書かれました。イエスが神の子と信じた人は神からの命をいただており、救われています。
 次に、ヨハネ福音書を書いたのはだれであるかを見ましょう。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」(ヨハネ21:24)。では「この弟子」とは、どの弟子なのでしょうか。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」(ヨハネ21:20)。伝統的には十二弟子の一人ヨハネがこの福音書を書いたとされていますが、現代の聖書学によればヨハネと断定できません。しかし「イエスの愛しておられた弟子」であることに間違いありません。イエスの胸もとに寄りかかるほど近くでその教えを浴びるように聞いてきた弟子だからこそ、この福音書を書くことができました。イエスに愛されて、イエスを愛した弟子によって書かれた福音書です。
 あと一つ、第1章に入る前に知っておきたいことは、この福音書が書かれた頃の教会の状況です。第16章の冒頭にこうあります。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(ヨハネ16:2~3)。「会堂」とはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)です。ユダヤ教はローマ帝国で認められていました。初代教会は、初めはユダヤ教の一派と見られていましたが、「イエスはキリストである」との教会の信仰は、ユダヤ教とは異なることが明らかになってきました。やがて、イエスの弟子たちはユダヤ人の会堂から追放されました。ユダヤ当局が「イエスは神を冒涜した、生かしてはおけない」と、ローマ総督ピラトに掛け合って、十字架に追いやったとき、彼らは神に奉仕していると考えていました。同じように、イエスの弟子たちを迫害する人々も、そのことで神に奉仕していると考える、というのです。そのことが、本日の聖書箇所に反映されています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5節)。
 そのような中で、ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1~2節)と信仰の宣言をしたのです。「初めに」とは、世界が創造される前、歴史の始まる前です。「言(ことば)」とは、ギリシア語「ロゴス」の訳で、イエス・キリストを指しています。ロゴスには、知恵、思いなどの意味がありますが、まことの「ロゴス」こそ、神の御心そのものであるイエス・キリストです。主イエスを信じて救われ、聖霊を受けて、弟子たちは、イエスが初めからおられた神であると分かりました。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3節)。これは、すべてを創造されたキリストの支配を示しています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(4節)。このキリストの命の光に、私たちは今、包まれています。キリストの命の光に照らされて、私たちは礼拝をしているのです。