2024年5月19日(日) 聖霊降臨節第1主日・聖霊降臨日
ペンテコステ礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 6
主の祈り
交読詩編 詩編85:9~14
祈 祷
賛 美 475
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第20章19~23節
説 教 「聖霊を受けなさい」
賛 美 342
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
※礼拝音声は聖餐をカットしています。
〔説教要旨〕
「ペンテコステ」は「50番目」という意味で、過越祭から50日後に行われるユダヤの祭りである「五旬祭」(使徒2:1)をギリシア語では「ペンテコステ」と言いました。五旬祭の日、主イエスの弟子たちが心を合わせて集まって祈っているところに、神の霊が降りました。ペトロが聖霊に満たされて説教し、その説教に心を動かされた人々が救われました。
聖霊降臨というと使徒言行録第2章を思い起こしますが、本日の聖書箇所にも聖霊が送られた出来事が記されています。「そう言ってから、(イエスは)彼ら(弟子たち)に息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(22節)。ここで「息」とある言葉はギリシア語の「プネウマ」(ヘブライ語の「ルアハ」に当たる)で、「息」も「霊」も「風」も「いのち」もプネウマで、日本語に翻訳するときは文脈で訳し分けます。考えてみれば、私たちは息絶えれば死ぬわけですから、プネウマが「いのち」であることが分かる気がします。息を吸って吐けば、口元に風が起こるといえます。風もプネウマです。旧約聖書では、嵐や風は神の息だと考えられていて、大嵐や大風は神が怒っておられると信じられていました。現代は科学のおかげでそうではないと知っていますが、古代の人々の素朴な信仰は大切だと思います。
22節を見ますと、主イエスが弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」とおっしゃっています。聖霊はイエスから送られる神の霊であり、イエスの霊なのです。聖霊は風のように、自由に働かれます(ヨハネ3:8)。ですから人には聖霊をコントロールすることはできません。イエスが派遣してくださる聖霊をただ信仰によって受ければよいのです。聖霊の派遣は先立っている神の恵みです。信仰も聖霊によっていただきます。自分が信じたのだと思っていますが、後で、信じさせていただいたのだ、と知るのです。
イエスによる弟子たちへの聖霊の派遣は、どういう状況で起こったのでしょうか。イエスが復活されたことを、マグダラのマリアから弟子たちが知らされた日の夕方のことです。弟子たちは皆で集まっていましたが、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていました。イエスの復活の知らせも弟子たちを恐れから解放しませんでした。私たちも自分を脅かす他者を恐れて心を閉ざすことがあります。そのようにして身を守れると思い込んでいるのです。
戸には鍵がかけてあったのに、復活された主イエスが弟子たちの真ん中に立たれました。イエスがおいでになるのを、だれも、何も妨げることはできません。イエスは弟子たちに平和を告げられます。「あなたがたに平和があるように」(19節)。この挨拶は重ねて語られ(21節)、再び弟子たちを訪れたときにも語られています(26節)。3度言われたとは、弟子たちや私たちに、まことに主イエスの平和が必要であり、イエスご自身が確かに平和をくださる方だということです。
イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになって、確かに生きておられることを示されました。イエスは弟子たちの恐れを取り除き、使命をお与えになります。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。罪の赦しの福音を告げ知らせるという使命です。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」(23節)。弟子たちの群れである教会に、罪の赦しの権威が与えられているとは驚きであり、重いことです。人が自分の思いで、罪を赦したり、赦さなかったりすることではありません。私たちの内におられる聖霊が、罪をお赦しになるのです。罪を赦され、神の子とされ、永遠の命に生かされるという福音を告げ知らせるため、聖霊を受けたのです。