2024年5月19日(日) 聖霊降臨節第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   156
主の祈り
交読詩編  詩編139:13~18
祈  祷
賛  美   58
使徒信条
聖  書   創世記第2章7節、15~25節
説  教  「命の息を入れられた」
賛  美   530
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 月に一度の日本基督教団信仰告白に沿っての説教は、本日から信仰告白の後半の使徒信条に入ります。今回は「天地の造り主を信ず」です。神は天地万物を造られたと、私たち(教会)は信じています。それは言い換えると、私たち一人ひとりが「神によって造られた」と信じることでもあるのです。
 旧約聖書の創世記には、神の天地創造の物語が2つあります。創世記第1章は一つめの物語、第2章は二つめの物語です。それぞれは、それを書いた人々の時代の神話的表現を借りて、物語を通して、神の真理を伝えています。本日は創世記第2章の人間の創造の出来事を見たいと思います。
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」(7節前半)。人は、土の塵からできているのです。聖書の別の箇所では、神は陶器師、人は土の器、とあります。人は土から造られました。死ねば土に返ります。肝心なのはその次です。「(神は人の)鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(7節後半)。「息」と訳された言葉は、ヘブライ語の「ルアハ」で、「風」「霊」「いのち」という意味もあります。神の霊の息吹を入れていただき、人は生きるものとなりました。私たちは神に生かされています。土の塵にすぎない人間が、神の命の息を入れていただいたところに、人間の尊厳があります。
 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(15節)。耕すこと、園を守り治める務めが、神に造られた初めから人に与えられています。神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と言われました(16~17節)。食物など必要なものは神が備えてくださっています。また人は、神の約束を守って生きるのです。人はプログラムで動くロボットではありません。自由な意志が与えられています。人は自由な意志を持って、神との約束を守って生きるのです。
 さらに神は言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(18節)。人は、独りでは生きられないのです。神は人に、助ける者・パートナーを与えられました。神は人から女を造られ、人は女に会ったとき「わたしの骨の骨だ、わたしの肉の肉だ」と喜びの声を上げました(23節)。
 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(24節)。これは、後の世代の人々の言葉です。人は親から自立して、対等な者同士として共に生きていきます。ある人とある人は結婚という特別な関係に生きます。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(25節)。これは印象的な言葉です。何も隠す必要がなかったのです。
 二人がエデンの園でこのまま生きていけたらよかったのですが、そうではありませんでした。創世記第3章にあるとおりです。二人は神との約束を破りました。男も女も自分の過ちを認めず、男は女のせい、また神のせいにしました。女は蛇のせいにしました。これは人間の罪の現実を示しています。神は二人をエデンの園から追い出されましたが、彼らのために動物を犠牲にして皮の衣を着せられました(創世記3:21)。神の配慮です。旧約聖書は人に対する神の配慮の記録と言ってもよいのです。
 神の究極の配慮は、神の子が人となり、私たちの救いとなられたことです。死に勝利し、復活して弟子たちの前に現れてくださったイエス・キリストは、弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を送ってくださいました(ヨハネ20:22)。救われるとは、新しく創造されることです(コリント二5:17)。天地の造り主を信じるとは、新しい創造(救い)を信じることでもあるのです。