2024年6月2日(日) 聖霊降臨節第3主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 492
主の祈り
交読詩編 詩編15篇
祈 祷
賛 美 237
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第1章19~28節
説 教 「荒野で叫ぶ声」
賛 美 516
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
新約聖書にある4つの福音書のうちヨハネによる福音書はおそらく最後に書かれ、当時の読者(著者・聴き手の教会)は、先に書かれたマタイ・マルコ・ルカ福音書に記されている出来事を既に知っていたと考えられます。ですから、ヨハネ福音書ではいきなり洗礼者ヨハネが登場し、しかもヨハネの活動についてはあまり述べられていません。そこで今朝は、マルコ福音書第1章1~8節を先に読みます。イザヤ書の言葉が引用され、ヨハネの出来事は預言の成就であることを示します(マルコ1:3)。ヨハネは罪の赦しの洗礼を宣べ伝え、ユダヤとエルサレムの住民が、ぞくぞくとヨハネのもとに来て、その教えに耳を傾け、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました(マルコ1:4~5)。
ヨハネによる福音書第1章に戻ります。「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして」(19節)とありますが、この「ユダヤ人たち」とは、一般の人々ではなくて、ユダヤの最高法院の議員たちを指しています。神殿で祭司の務めにつき、ユダヤ教の教師であり、影響力のあった人たちです。この人たちからすれば、自分たちのあずかり知らないところで、荒れ野で洗礼の運動をするヨハネとは何者か、大勢の人々がヨハネのもとに行って洗礼を受けているとは何事かと、思ったことでしょう。そこで、彼らは祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ派遣しました。「あなたは、どなたですか」(19節)とはきれいな日本語ですが、実際は「お前はだれだ!」という尋問です。裁いているのはユダヤ人たち、裁かれているのはヨハネです。
「わたしはメシアではない」(20節)。これは洗礼者ヨハネの立場を考えると、彼の謙遜の言葉であると思います。ユダヤとエルサレムから大勢の人々がやってきたのですから、ヨハネには、自分こそメシア(救い主)だ、人々を救える、と思い込む誘惑もあったでしょう。しかし彼は自分の立場を知っていました。尋問した人たちは、ヨハネの応答に安堵したかもしれませんが、目的は達していません。さらに問います。「あなたはエリヤか」(21節)。旧約聖書に登場する偉大な預言者エリヤ。メシアが到来する前にエリヤが再来するという約束がありました(マラキ3:23)。ヨハネは「違う」と答えました。「では、あの預言者か」(22節)と彼らは問います。これは申命記18章15節のことで、神がいつかモーセのような預言者を立てられるという約束です。ヨハネは「そうではない」と答えました。派遣された人々は困惑して「それではお前は何者なのか」と問います。ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節。イザヤ40:3の引用)。
ヨハネは自分を「声」だと言いました。声そのものは残りません。消えていきます。しかし、声が語った言葉は、私たちの中に刻まれます。ヨハネは「主の道をまっすぐにせよ」と叫びました。自分の声を聞いた人が、心を開いて、主をお迎えすることができるなら自分は消えてよい、という洗礼者ヨハネでした。ヨハネは生涯そのように生きた人でした。さらにヨハネは言いました。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(26~27節)。自分の後から来られる救い主は、「あなたがたの中におられる」。まだ知らないだけなのです。履物のひもを解くことは奴隷の仕事ですが、自分は救い主に近づくことさえできない者なのだ、というヨハネの謙遜の言葉です。
私たちも洗礼者ヨハネのように「主の道をまっすぐにせよ」と叫びます。荒れ野のような時代ですが、そこでこそ主に出会えます。救い主が来られます。主をお迎えしましょう。