2024年6月9日(日) 聖霊降臨節第4主日・花の日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編84篇
祈 祷
賛 美 280
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第1章29~34節
説 教 「荒野で叫ぶ声」
賛 美 437
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
※礼拝音声は聖餐をカットしています
〔説教要旨〕
昨日の川口がん哲学カフェいずみでは、がん哲学外来提唱者の樋野興夫先生の著書より、「人生は出会いで動かされる」という言葉があり、参加された皆様が思いを巡らしました。
私たちキリスト者にとっては、何よりも神との出会い、主イエス・キリストとの出会いが、人生において決定的なことです。
今日の聖書箇所には、主イエスと洗礼者ヨハネの出会いの出来事が記されていますが、私たちとイエスとの出会いと重なるところがあります。
「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て…」(29節)とあります。主イエスは近づいて来てくださる方なのです。「わたしの後から一人の人が来られる」(30節)と洗礼者ヨハネは語りました。救い主は来て出会ってくださいました。ヨハネはさらにこう語ります。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(31節)。
私たちも同じではないでしょうか。聖書を読んだり、礼拝に行ったりして、少し神について知ったように思っていましたが、まことにイエスを主と告白し、神と人格的な親しい関わりに生き始めると、実はイエスが自分を訪れてくださったことを知ります。さらに「わたしはこの方を知らなかった」、自分は何も分かっていなかった、と知ります。しかし今は「イエスは主である。キリストである」と知り、信じています。
洗礼者ヨハネは神の導きによって水で洗礼を授けていましたが、イエスに出会って始めて、神からの救い主がイスラエルに現れるために、自分は水の洗礼を授けるように命じられていたことを悟りました。つまりイエスが来られたことによって、ヨハネは、自分が来た役割を理解しました。イエスと出会うまでの過去が踏み直されました。自分の使命が自覚されました。
私たちも同じではないでしょうか。キリストと出会うまでは、過去―そこには、悲しいことも、苦しいこともありました―が、自分の選択のすべてではなく、偶然の連続でもなく、既にキリストがご存じであり、すべてがキリストに出会うためであったと知らされたなら、過去を新しく受けとめ直すことができ、自分の使命や役割を見出せるのではないでしょうか。
もう一つ、主イエスとヨハネとの出会いで大切なことがあります。それは、神が出来事の意味を示してくださり、信仰の告白へと導かれるということです。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」(33節)。もし、前もっての神の導きがなければ、聖霊が鳩のようにある人の上にとどまるのを見ても、神秘的な出来事だ、で終わってしまいます。神がヨハネにあらかじめ語ってくださったからこそ、この方が救い主であり、聖霊によって洗礼を授ける方、神の子だと分かったのです。私たちも神の言葉を聞いて、神の出来事を体験して、信仰の告白へと導かれるのです。今、私たちにとっては礼拝の説教、祈祷会の学び、日々の祈りにおいて神の言葉を聴きます。教会につながっていることが大切です。そうでないと、独りよがりになってしまいます。
ヨハネは叫びました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。この言葉には旧約聖書の背景があります。イザヤ書第53章のすべての人の罪を担う主の僕の預言が、主イエスにおいて実現したということ。もう一つは出エジプト記第12章に出てくる過越の小羊です。小羊の血を塗った家の者たちは滅ぼされませんでした。主イエスは私たちの罪を取り除いてくださる神の小羊です。