2024年6月23日(日) 聖霊降臨節第6主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   352
主の祈り
交読詩編  詩編103:1~13
祈  祷
賛  美   546
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第14章32~42節
説  教  「全能の父なる神」
賛  美   470
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 「我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず」と使徒信条は始まります。私たちの信じる神は、天地の造り主であられ、全能の父であられます。それはいったいどういうことなのか、御言葉に聞きたいと思います。
 まず、エフェソの信徒への手紙第1章を開きます。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:4~5)。私たちが神を父と呼ぶことができるのは、神が、私たちを神の子にしようとお決めになったからだというのです。しかも、天地創造の前に、私たちは愛されて、キリストにおいて選ばれていた、というのです。時間も空間も超えた神の事実に圧倒されます。このことは、私たちの知識や経験では理解できません。ただ信仰によって、信じるばかりなのです。しかし、そのことによって、私たちは自分自身の価値をも知らされ、信じるのです。私たちは、自分が生まれ、生きている間だけの存在ではありません。この世界と歴史が始まる前に、すでに神に愛され覚えられていたのです。
 もう1箇所、聖書を開きます。ヘブライ人への手紙第2章です。「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、 集会の中であなたを賛美します』と言い…」(ヘブライ2:11~12)。私たちが神を父と呼ぶことができるのは、主イエス・キリストが私たちをご自分の兄弟姉妹と呼ぶことを恥となさらないからだというのです。私たちは、主イエスにどこまでも受け入れられているのです。この時代は、結果を出すことが求められて、できることに価値が置かれています。以前、私は自分ができないことに捕らわれ、自らを責め、恥じている時期がありました。他の人にも言えないでおりました。朝、聖書を読んで祈ることは続けていましたので、あるとき、このヘブライ人の手紙の御言葉を読んだとき、「私はこんなに自分を恥じているのに、イエスさまは私を恥となさらないと言ってくださるのだ…」と深く心を動かされ、救われたことを思い出します。
 主イエスにおいて、私たちは神を父と呼ぶことが許されています。私たちが神を「父よ」と呼ぶことができるようになるために、主イエスは何をしてくださったのでしょうか。
 マルコによる福音書第14章、ゲツセマネの園の主イエスの苦闘の祈りのお姿を見ましょう。「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(マルコ14:35~36)。「アッバ」とはアラム語で「父」という意味です。主イエスは神を「父よ、父よ」と呼んでおられます。すべての人を救うために苦しみ、命まで取られる十字架という「杯」は、イエスでさえ簡単に受けられることはできませんでした。全能の父なる神に、「この杯を取りのけてください」と願われました。しかし、イエスは最後には御心が成るように祈られました。神は、主イエスが苦しみの杯を飲み干すことを求められました。神の全能とは、愛における全能です。イエスは私たちを愛してくださり、苦闘の祈りの果てに、神の御心である十字架を引き受けてくださいました。神の愛の全能の力は、主イエスが救いとなってくださったことに示されました。