2024年7月7日(日) 聖霊降臨節第8主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   11
主の祈り
交読詩編  詩編14篇
祈  祷
賛  美   194
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第1章43~51節
子ども説教
説  教  「天と地をつなぐ方」
賛  美   432
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 ヨハネによる福音書第1章29節以下を振り返ってみます。洗礼者ヨハネはイエスを指し示し「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29、36)と声を上げました。その声に押し出されるようにして、ヨハネの二人の弟子がイエスに従い、イエスの弟子となりました。その二人のうちの一人アンデレは、自分の兄弟シモンをイエスのもとに連れて行きました。シモンはケファ(ペトロ)という新しい名を与えられ、弟子となりました。
 本日はその続きで、フィリポとナタナエルがイエスの弟子となる出来事です。ナタナエルは、マタイ・マルコ・ルカ福音書には登場しません。ヨハネ福音書においても本日の箇所以外では、21章2節に「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」とあるだけです。つまり、ナタナエルの声が聞こえ、姿が見えるのは本日の聖書箇所だけです。しかし、まことに印象深いイエスとの出会いです。「ナタナエル」という名前は「神が与えられたもの」という意味です。彼の親が信仰をもって喜んで名付けたと思われます。
 先に、イエスに招かれて弟子となったフィリポがナタナエルにイエスを紹介します。フィリポはこう言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」(45節)。フィリポとイエスの出会いは詳しく描かれていませんが、この言葉から、フィリポがイエスのもとで、その教えを聞いて、イエスを約束されていた救い主と信じたことが分かります。「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)とナタナエルにイエスを紹介します。ナザレはガリラヤにある町です。旧約聖書には出てきません。重んじられる町ではなかったのでしょう。ですからナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い、フィリポの言葉を信じませんでした。フィリポは「来て、見なさい」と言って、彼をイエスのところに連れて行きました(46節)。これが良かったのです。実際にイエスにお会いすることが大切です。ナタナエルが、フィリポの言葉に従ったことも良かったです。これがナタナエルの人生の岐路になりました。こうして、ナタナエルがイエスに会いに行きます。イエスは喜ばれたと思います。ナタナエルのことをこう言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)。
 このように言われて、ナタナエルが驚いたのです。「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました(48節)。「いちじくの木の下にいる」とは「神の言葉を真剣に学ぶ」という意味です。ミカ書4章4節には、神の守りの内に、いちじくの木の下に安らかに座ることができる、平和の到来の約束が描かれています。イエスは、ナタナエルの真実の心を喜ばれたのです。イエスの言葉に驚いたナタナエルは信仰の告白をします。「ラビ(先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)。ナタナエルは、自分がイエスと出会う前に、既に自分が知られていたことに驚き、畏れたのだと思います。
 イエスはさらに言われました。「…もっと偉大なことをあなたは見ることになる。…はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(50~51節)。かつて、イスラエルの父祖ヤコブが、独りで旅をしたときに、夢で、天から地に向かう階段と、それを天使たちが上り下りするのを見ました(創世記28:12)。そのことを踏まえてイエスは、「人の子」であるご自身が、天の父なる神と、地にある私たちとの、まことの橋渡しである、と言われたのです。イエスは父に至る道なのです(ヨハネ14:6参照)。