2024年7月21日(日) 聖霊降臨節第10主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 204
主の祈り
交読詩編 詩編62篇
祈 祷
賛 美 544
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第2章13~25節
子ども説教
説 教 「何が人間の心にあるのか」
賛 美 475
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(25節)とあります。何が人の心にあるのでしょう。24節には「イエスご自身は彼らを信用されなかった」とあります。「彼ら」とは、イエスのなさったしるしを見て、イエスの名を信じた多くの人々を指しています(23節)。イエスは御自分を信じた人々を信用されなかった、というのです。私たちはどうなのでしょう。イエスに信用される人間なのでしょうか。そのような問いを持ちながら、13節以下の出来事に耳を傾けたいと思います。
新共同訳聖書で「神殿から商人を追い出す」と小見出しがつけられているこの出来事は、教会の伝統では「宮清め」と呼ばれ、マタイ・マルコ・ルカ福音書にも書かれています。ヨハネ福音書だけが、この出来事を主イエスの宣教の初めに位置づけています。ヨハネ福音書第1章で「イエスは神の独り子」と証しされ、神の独り子として一貫して行動なさるイエスのお姿が描かれています。このことと関連しています。
過越の祭りは、年に一度、ユダヤの人々の先祖が神によってエジプトから救い出された出来事を記念する祭りです。各地から巡礼者がやってきます。巡礼者は、律法に定められた動物の犠牲をささげます。しかし現実には、家畜を連れて旅をするのはたいへんなので、便宜を図り、神殿で犠牲用の動物の売買が行われていました。また、神殿に納める税はユダヤの硬貨でなければならなかったので、ローマの硬貨を両替する必要があるため両替人がおりました。これらの商売で祭司たちは大金をもうけていました。
イエスは、縄で鞭を作り、その鞭をふるって、動物を追い出し、両替人のお金をまき散らして、言われました。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。そんなことをしたものですから、商売を主催していたユダヤ人たち(最高法院の議員でありユダヤ教の指導者)はイエスに言いました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18節)。イエスのお答えが不思議な言葉です。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)。その言葉に驚いて、ユダヤ人たちが思わず「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました(20節)。この言葉の意味は、イエスが十字架で死なれ、復活し、聖霊が降って、初めて弟子たちに知らされました(22節)。ですから、福音書記者は「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(21節)と記しています。
イエスが、神殿から犠牲のための動物たちを追い出されたのは、ご自分が過越の羊としてささげられたからです(ヨハネ1:29参照)。ですから、犠牲の動物はもう必要がないのです。壮麗な建物としての神殿や動物の犠牲が、礼拝を礼拝とするのではないのです。聖霊が宿ってくださる神殿としての教会、主イエス・キリストの体である教会において、場所によらない礼拝をささげる新しいときが訪れています(ヨハネ4:21、24参照)。
私たちは、律法や神殿には関係ないと思いますが、ユダヤ人たちのもっていた欲望や偽善の罪とは無関係ではありません。彼らのように「神のため」「律法に定められているから」という大義名分を掲げて、実は、自分の利益を追求する欲望、偽善が、人間の心の中にあることを、イエスは見ぬいておられました。私たちもイエスに信用されない人間であるにもかかわらず、イエスは愛してくださいます。イエスが愛してくださるのは、私たちが信頼に足るからではありません。神が、私たちが滅びることを見過ごすことがおできにならなかったので、愛してくださるのです(ヨハネ3:16参照)。