2024年7月28日(日) 聖霊降臨節第11主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編16篇
祈 祷
賛 美 533
使徒信条
聖 書 使徒言行録第2章36節
子ども説教
説 教 「イエス・キリストは主」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 409
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
使徒信条の第2部に入ります。本日は「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」の「我らの主を信じる」とは、どういうことなのか。改めて聖書に聴きたいと思います。
まず、使徒言行録第2章36節の御言葉を読みます。「…あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。これは、使徒ペトロが、ペンテコステの日、聖霊を受けて語った説教の終わりの言葉です。十字架で死んで、葬られ、三日目に復活させられたイエスを、神が主となさったのであり、この方こそメシア(キリスト)、救い主、これこそ、知るべきことです。ペトロ初め弟子たちは、聖霊を受けて、主イエスの十字架と復活の出来事の意味を悟ったのでした。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一12:3)とある通り、「イエスが主である」と心から信仰告白ができるのは、聖霊の働きです。ですから、洗礼志願の承認は、信仰告白によって確認しています。
使徒言行録第16章11節以下には、パウロたちがフィリピで伝道したとき、リディアという女性が主を信じた出来事が記されています。洗礼を受けたリディアはパウロにこう言います。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」(使徒16:15)。そう言ってパウロたちをもてなしました。主を信じて生きるとは、自分の持てるものを主の業のために献げて生きることです。
コリントの信徒への手紙一第6章13節以下には、興味深いことが書かれています。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。…あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。…あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(コリント一6:13~19)。
「主は体のためにおられる」とは大胆な発言ではないでしょうか。日本では、宗教は自分で選ぶという考えがあると思います。まるで本棚から本を取り出すように、「キリスト教」もその中の1冊であるかのように。初めはそのように考えていたとしても、礼拝に参加し、聖書の言葉を聞くと、その考えが逆転します。神が造り主であって、私たちは造られた存在であること、神がおられるから、私たちが生きていることを知ります。教会の信仰は、こころだけではなく、体ごと、存在そのものの救いです。これは使徒信条の「身体のよみがえりを信ず」とも関わっています。
今年の4月、詩画作家の星野富弘さんが、神の御許に召されました。キリスト教番組「ライフライン」で追悼番組が放映されました(YouTubeで視聴できる)。詩画集「いのちより大切なもの」(いのちのことば社)から、「いのち」という詩が紹介されました。「いのちがいちばん大切だと思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものがあると知った日/生きているのがうれしかった」。生前、星野さんが語っておられた言葉に感銘を受けました。星野さんは、「信仰を持ってから、いのちをかけても大切にしたいものがあるようになりました。それまでは、いのちが大切だと思うあまり、大事にしすぎておくびょうになっていました。いのちは、神さまがくださったものだと知ったとき、いのちを使えるだけ使おう、一生かかって使っていこうと思いました」と言われました。「我らの主、イエス・キリストを信じる」とは、星野さんのように、神にすべてを任せて、いただいたいのちを使えるだけ使おう、という生き方ではないでしょうか。