2024年8月4日(日) 聖霊降臨節第12主日・平和聖日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 205
主の祈り
交読詩編 詩編51:1~14
祈 祷
賛 美 425
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第3章1~15節
子ども説教
説 教 「新たに生まれなければ」
賛 美 346
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
ヨハネ福音書の説教も第3章に入りました。第3章では主イエスとニコデモの対話、第4章では主イエスとサマリアの女の対話が比較的長い分量で記されています。それが、マタイ・マルコ・ルカ福音書と異なる、ヨハネ福音書の特徴です。主イエスは一人の人と出会って対話をしてくださいます。主イエスは、私たち一人ひとりと出会って、対話をしてくださるのです。
「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」(1節)。福音書を読むとファリサイ派の人々は、主イエスの敵対者ではないかと思われるかもしれません。しかし、彼らは真面目に信仰の筋道を通そうしていた人々で、律法の中でも、特に、安息日、断食、施し、宗教的な清めを重んじていました。イエスがそれらを軽んじているように見えたので、対立することが多かったのです。
そのようなファリサイ派に属するニコデモが、あえて、イエスを訪問せざるを得なかったことに、注目します。ニコデモは主イエスにこう言います。「ラビ〔先生〕、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。
私たちも、信仰の仲間の中に「ああ、この人は本当に神と共に生きている人だ」と思われる人がおります。「どうしたらそのように生きられるのか。その秘密を知りたい」と思うことがあるのではないでしょうか。もしかしたら、ニコデモもイエスに対してそのように思ったのかもしれません。
主イエスはニコデモの心にある思いを見抜いて言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。驚くニコデモに、言葉を重ねるようにして言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。
主イエスがここで言っておられる「生まれる」とは、赤ちゃんがお母さんから生まれることではなく、神の次元、霊の次元のことです。ニコデモはそれが理解できなかったので、対話がかみ合っていません。「神の国に入る」「神の国を見る」とは、言い換えると、「救われる」「永遠の命を得る」ことです。議員という選ばれた存在、律法を守るファリサイ派、経験を積んできた年配者(4節参照)であるニコデモでしたが、それらによっては、人は救われないのです。しかし、だれでも神の霊によって新しく生まれれば、救われるのです。そこには何の分け隔てはありません。
次いで、主イエスは霊の働きを風の働きにたとえて語られました〔ギリシア語では「風」も「霊」も同じ語〕。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。霊の働きは風のようです。風の始まりと終わりが分からないように、人には霊の働きの始まりも終わりも見極めることができません。しかし、風の音が人に聞こえるように、神は霊の声を聞かせてくださっています。まさに今、説教によって、私たちは霊の声を聞くことが許されています。霊の声は何を語っているのでしょう。もちろん、イエス・キリストは主である、という福音ですが、この箇所での文脈では、13~15節、さらに16節以下へ続くイエスのお言葉です。「天から降って来た者、すなわち人の子〔主イエスのこと〕のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない〔十字架と昇天〕。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(13~15節)。