2024年8月25日(日) 聖霊降臨節第15主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 208
主の祈り
交読詩編 詩編20篇
祈 祷
賛 美 484
使徒信条
聖 書 マタイによる福音書第1章18~25節
子ども説教
説 教 「イエスという名」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 532
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
使徒信条の第2部は「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」で始まります。本日は我らの主が「イエス」という名であるとは、どういうことか、聖書に聴きたいと思います。
様々な事情の方もあると思いますが、大半の方は、両親や家族に待ち望まれて誕生し、親あるいは祖父母、親しい人が名前を決めて付けるでしょう。ところが「イエス」という名は神が直接おつけになった名前です。新約聖書はギリシア語で書かれていますので、「イエス」に当たるヘブライ語は「ヨシュア」です。「主は救う」という意味です。当時のイスラエルでは珍しい名前ではなく、長男につけられることが多かったようです。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」(18節)。どのようであったかというと、まず、ヨセフの婚約者のマリアが懐妊していることが分かったことが告げられています。当時の婚約は結婚と同じくらいの重みがありました。結婚するまでは互いに別々に暮らしていました。ですから、婚約者が妊娠したとは、姦淫の罪を犯したと考えざるを得ない。しかし、マリアがそのような人とは考えられない…など、ヨセフは大変な驚きと葛藤の中にあったと想像します。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。「正しい人」とは、律法を守る人であり、神の御心を行う人のことですから、憐れみ深い人といえるでしょう。姦淫の罪は石打ちの刑になるほどの重い罪です。しかし、ヨセフはマリアを人前にさらすことを望まず、ひそかに離縁しようとしました。『ガリラヤのイェシュー』を書かれた山浦玄嗣先生の解説では、当時のイスラエルでは、ひそかに縁を切ることも容易ではなかった、とありました。二人の証人が必要でありました。確かに、現代日本社会の人間関係とは異なり、ユダヤの共同体で、誰がどういう関係なのか知られている社会ですから、秘かに離縁することが難しいとは、あり得ると思いました。それほどまでの苦労をして、ヨセフはマリアを守り、表ざたにしない、と決心したのです。
そこへ神の介入がありました。主の天使が夢に現れて、ヨセフに神のご計画を知らせました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(20~21節)。聖霊によって宿った命であるとは、人の知恵や経験を超える出来事ですが、ヨセフは信じて受け入れました。神はヨセフに、「マリアは何にも恥ずべきことはしていない。マリアとお腹の子を、お前の妻として、お前の子として受け入れてくれないか」と求められました。ヨセフがマリアとお腹の子を受け入れたことによって、救い主がダビデの子孫から出るという預言が実現したのです。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者〔イザヤ〕を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(22~23節)。イエスという名は「主は救い」という意味です。「インマヌエル」というもう一つの名があるというよりも、主の救いとは「神は我々と共にいてくださる」ということなのです。旧約の昔から聖書の神は「民と共にある神」です。神の民が荒れ野にいても、捕囚の地にいても、神は共にいてくださいました。ついに、神の子が人となって世に来られ、神は、私たちと共にいる神であることを示してくださいました。「イエス」(主は救う)という名に関係のない人は誰一人いないのです。