2024年9月1日(日) 聖霊降臨節第16主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   153
主の祈り
交読詩編  詩編84篇
祈  祷
賛  美   403
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第4章7~15節
子ども説教
説  教  「生きた水を与える方」
賛  美   432
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちやユダヤのファリサイ派の人々がご自分のことを快く思っていないことを知り、サマリアを経由してガリラヤへ向かわれます(1~4節)。サマリアの町シカル〔旧約聖書に出てくる「シケム」(創世記12:6、33:18~20、48:22、ヨシュア24:32)〕に着くと、イエスは旅に疲れて、ヤコブの井戸の側に座り込んでしまわれました(6節)。私たちは、主イエス・キリストが人となられた神の子と信じています。イエスが人となられたとは、まことに私たちと同じ体を持っていらっしゃることです。お腹は空き、喉は渇き、疲れのために座り込んでしまわれることもおありです。そのような中で、井戸に来た一人の女のために、神の言葉を語りかけてくださるのです。
 正午ごろ(6節)、ある一人の女が井戸に水をくみに来ました。イエスはその女に「水を飲ませてください」と言われました(7節)。これは、当時のユダヤ人社会ではありえないことです。というのは、律法を厳格に守るユダヤ人男性は人前で女性に話しかけることはしなかったからです。さらに、ユダヤ人はサマリア人を異邦人同様に見なし、交際すると汚れると考えられていました。
 少し歴史的な背景を述べます。紀元前8世紀、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされますと、アッシリアは人々を連れて行き、アッシリアの各地から人々を北イスラエルに移住させました。残ったイスラエルの人々と移住させられた人々との混血による人々がサマリア人です。サマリア人はイスラエルの神を礼拝しましたが、他の神々も礼拝しました(列王下17:24以下)。紀元前586年、南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、人々は捕囚となって連れて行かれました(バビロン捕囚)。約60年後、ペルシャ王に許されて、帰還したユダヤ人はサマリア人から苦しめられました。ユダヤ人による神殿の建設が始まり、サマリア人が協力を申し出ましたが、ユダヤ人が断ると、サマリア人は建設を妨害しました。さらに時が過ぎ、サマリア人がエルサレム神殿に対抗してゲリジム山に自分たちの神殿を建てました。そこで、決裂は決定的となりました。こうして、イエスの時代には、ユダヤ人はサマリア人を異邦人と見なし、交際すれば汚れるとしました。ですから、主イエスは、当時の常識を乗り越えて、「水を飲ませてください。どうか助けてください」と女に声をかけられたのです。
 もう一つ、イエスと女が出会ったのは「正午ごろのこと」(6節)でした。暑い日中に井戸に水を汲みに来る人はいません。ですから、この女が人目を避けていること、誰にも会いたくない事情があることを示しています。それは、イエスも見抜いておられたでしょう。それにもかかわらず、イエスは女に「水を飲ませてください」と言われました。
 この後に続くイエスと女の対話は、かみ合っていません。女は実際に飲む水のことだと思って話していて、主イエスが語っておられる「水」は、霊的な意味でお語りになっているからです。主イエスが与えてくださる水は、不思議な水です。生きた水だというのです(10節)。その水は、こんこんと水が湧く泉となって、永遠の命に至らせてくれる水だというのです(14節)。そんな水があったらありがたいと思った女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)とイエスに言います。この対話は、次回の説教で続きに耳を傾けたいと思います。主イエスが語られた「生きた水」とは神の霊です。水のイメージで、霊の出来事を語っておられます。神の霊は、私たち一人ひとりの魂の渇きを癒し、存在を潤し続けて、永遠の命に導いてくださる、生きた水です。イエスはだれにでも惜しみなく与えてくださるのです。