2024年9月29日(日) 聖霊降臨節第20主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   204
主の祈り
交読詩編  詩編132:10~18
祈  祷
賛  美   280
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第8章31~38節
子ども説教
説  教  「キリストとはだれか」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   443
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 先ほど朗読した箇所から少し前の27節から、御言葉に耳を傾けましょう。主イエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリア地方に向かいました。その途中でイエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「洗礼者ヨハネとか、エリヤとか、預言者の一人だ、と言う人がいます」と答えました。「洗礼者ヨハネ」とは、罪の悔い改めの洗礼の運動をした人で、ヘロデ王に殺されてしまいました。イエスのことをヨハネが生き返ったのだと思った人もいました。「エリヤ」は旧約聖書最大の預言者で、人々から尊敬され、神からのメシアが来る前に再び現れると信じられていました。
 イエスは、弟子たちに鋭くお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。だいたいこういうときに、最初に応えるのは弟子のペトロですね。「あなたは、メシア〔キリスト〕です」(29節)。主イエスはペトロの答えを良しとされました。これはペトロの信仰の告白だったからです。マタイ福音書には、このことを現したのは、天の父である、とあります。
 「メシア」とは、もともとは「油注がれた者」という意味です。王あるいは祭司あるいは預言者が任命されるとき、オリーブ油を注いだのです。それは、神の霊を受けるというしるしでありました。やがて「メシア」は、王でもあり祭司でもあり預言者でもあるような、神からの救い主を指すようになり、メシアを待ち望む信仰が生まれました。
 イエスは「あなたはメシアです」とのペトロの答えを良しとされたうえで、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められ」ました(30節)。この時点では口止めをされたのです。
 「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められ…しかも、そのことをはっきりとお話しに」なられました(31~32節)。弟子たちのだれも思いも及ばなかったこと、復活という、人の知識や経験ではありえないと思われることまでお語りになりました。弟子たちはびっくりしたでしょう。ここでもすぐに行動するのはペトロでした。イエスをわきへお連れして「そんなことがあってはなりません」と言ったのでしょう。イエスはペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節)。サタンとは、神に敵対する者です。師であるイエスのことを思って言ったペトロでしたが、そのペトロの思いは、神の働きを妨げることであり、サタンに加担することでした。
 当時、ユダヤの人々は異邦人の支配を屈辱的に感じており、ローマの支配からの解放を願う人々もありました。ですから「自分こそメシアだ」と言って、人々の心の願いに応えてくれる人が待ち望まれていました。今でもそれは変わらないと思います。人々の解放を願う心を否定するつもりはありません。けれども聖書は、私たち人間の願いの延長線上に救いがあるとは語っていません。人の思いの及ばない仕方で、神からのメシア〔キリスト〕は来られるます。イエスは、苦難と復活の道を歩むメシアとしての姿を予告されました。さらにイエスを信じて従う者も、つまり、キリスト者は、同じようにキリストの道を歩む者となることを示されました。つまり、十字架に死んで新しい命に生きる道です。
 マルコ福音書の最後、復活されたイエスが弟子たちに現れ、宣教命令を授けられます(マルコ16:15)。十字架と復活により神の救いは実現しました。ですから今、教会は「イエスはキリスト。キリストはイエス」という福音を告げ知らせるのです。