2024年10月6日(日) 聖霊降臨節第21主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   16
主の祈り
交読詩編  詩編86:1~10
祈  祷
賛  美   162
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第5章1~18節
子ども説教
説  教  「だから私も働く」
賛  美   505
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 ヨハネによる福音書には、マタイ・マルコ・ルカ福音書と異なるユニークな面があります。例えば、本日の聖書箇所では、長い間病気であった人をイエスがいやしてくださいましたが、他の福音書ならいやしの出来事で終わって、次の場面へと移ります。しかしヨハネ福音書では、その出来事から始まって、イエスの長い説教や対話が続くのです。そのような「ヨハネ福音書らしさ」を大切にして、主イエスのお言葉に耳を傾けましょう。
 イエスは、祭りのためにエルサレムに上られました(1節)。しかし、祭りに向かわず、羊の門のかたわらのベトザタの池へ行かれました(2節)。池を囲む回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。3節と5節の間に「†」とありますが、ヨハネによる福音書の巻末にあります。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。こういう言い伝えがあったのです。さてイエスは、38年も病気で苦しんでいる人と出会い、声をかけられました。「良くなりたいか」。この人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)と応えました。この言葉から厳しく悲しい現実があることが分かります。まず、深い孤独です。自分を助けてくれる人はだれもいない。さらに、たくさんの病人たちが、池の水が動いたら真っ先に自分が入ろうとしていた。つまり他の人と競い合っていたのです。この人は希望を見いだすことができなくなっていました。「良くなりたい」と言いませんでした。都は祭りでにぎわっていたけれど、自分は神殿に行くことも叶わないと思っていたかもしれません。ところが、主イエスがこの人に言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしました(8~9節前半)。この人は「信じます」とも「いやしてください」とも言っていません。イエスが一方的にいやしてくださったのです。
 「その日は安息日」でありました(9節後半)。安息日とは、今の曜日では、金曜の日没から土曜の日没までです。旧約聖書では第七の日と呼ばれて、神がこの日を安息日として定められました(出エジプト20:8~11)。神を礼拝するために仕事をしてはなりませんでした。ところが、イエスの時代には、安息日にしてはならないことが事細かに定められていました。イエスにいやしていただいた人が床を担いで歩いていたら、それは安息日にしてはならないことだと、ユダヤ人たち(宗教的指導者あるいはユダヤ教の教師たち)がとがめました(10節)。ユダヤ人たちは、この人をいやしたのはイエスだということが分かって、今度はイエスをとがめます。「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」(16節)。イエスは彼らにお答えになりました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)。イエスがはっきりと語られたことが、ユダヤ人たちが殺意を抱くほどに憎まれることになりました。
 イエスは、ユダヤ人たちがどう反応するかは、ご存じであったと思います。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」(ヨハネ2:25)とあります。あえて、安息日に癒しの業をなさったと思います。それは、父なる神が今も働いておられ、安息日を真に安息日として回復なさるために、イエスも働いてくださっているからです。