2024年10月13日(日) 聖霊降臨節第22主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   140
主の祈り
交読詩編  詩編100篇
祈  祷
賛  美   405
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第5章19~30節
子ども説教
説  教  「命へと移っている」
賛  美   509
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカット〕


〔説教要旨〕

 今日与えられた聖書の箇所は、主イエス・キリストの言葉ですが、「はっきり言っておく」が3度出てきます(19節、24節、25節)。聖書の言葉は全て大切ですが、主イエスは、本当に大切なことをお語りになる前に「はっきり言っておく」と言われます。新しい協会共同訳聖書では「よくよく言っておく」となりました。直訳すると「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」です。「アーメン」は、教会では祈りの最後に唱和しますが、「然り」「まことに」「真実」という意味です。それが繰り返されているわけです。イエスのお言葉をしっかりと聴きましょう。
 最初の「はっきり言っておく」は19節です。「子〔イエス・キリスト〕は、父〔天の父なる神〕のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」。私たちはヨハネ福音書を今まで見てきました。イエスは、水をぶどう酒に変えられ(第2章)、役人の息子をいやし(第4章)、38年も病気で苦しんでいた人をいやされました(第5章)。そのイエスが「自分からは何事もできない」と言っておられます。30節でも「わたしは自分では何もできない」とあります。本当に驚きです。神の独り子であられる方が、無力に徹しておられるのです。いつか、やがて、できるようになるというのでもありません。無力に徹して生き抜かれたのです。イエスが無力に徹しておられるのは、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」からです。主イエスが地上でなさる業は、父なる神がなさることすべてであり、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」(20節)ことなのです。父なる神と子なる神の、愛し愛される関わりのなかでのイエスの御業です。無力に徹しておられる御子イエスは、父なる神の想いを、わが想いとされ、父なる神に服従されました。
 イエス・キリストが「自分からは何事もできない」と言われ、父なる神に聴き従っておられるのに、私たちはどうなのでしょう。
 さらに、驚きの言葉が続きます。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(21節)。ここでの「命」とは、神からの命ですから、「救われる」と言い換えることもできます。私たちが今、神に救われ、生かされているのは、子なる神イエスが、私たち一人ひとりに命を与えたいと思ってくださったからなのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われたイエスのお言葉が思い出されます。
 次に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)。続けて「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(25節)と言われます。
 死んだ者が神の子の声を聞く時が来るとは驚きですが、ヨハネ福音書第11章のラザロの復活の出来事は、まさにこの言葉のとおりのことでした。主イエスが墓に葬られたラザロに向かって「出て来なさい」と大声で叫ばれたら、ラザロが手と足を布で巻かれたまま出て来たのでした(ヨハネ11:43~44)。
25節の「死んだ者」は、ラザロのような死者だけでなく、生きているのに死んでいるかのような人、第5章の冒頭の病人のように、孤独であり、絶望しきっている人のことも含まれているでしょう。そのような人を主イエスは訪れて、命へと招いてくださるのです。神の子の声を聞かせてくださり、命へと移してくださるのです。私たちは、聖書の言葉の中に、イエスの声を聞きます。それにより、主イエスを遣わしてくださった父なる神を信じて、生きていくことができます。命へと移っているのです。