2024年10月20日(日) 聖霊降臨節第23主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   352
主の祈り
交読詩編  詩編116:1~7
祈  祷
賛  美   58
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第5章31~47節
子ども説教
説  教  「神への愛があるか」
賛  美   444
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 今日の聖書箇所は、主イエスが、ご自分に対して殺意まで抱いているユダヤ人たち〔ユダヤ教の教師・指導者〕に対して、語っておられる言葉です。「あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく」(34節)との熱い思いを持って語っておられます。ユダヤ人たちは、イエスが「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた」ので、イエスが神を冒瀆していると考え、殺意を抱きました(ヨハネ5:18)。それに対して、イエスはご自分についての証しがあるのだ、と言っておられます。
 既に洗礼者ヨハネの証しがありました。洗礼者ヨハネはイエスを見て「世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と叫び、証しをしましたが、イエスは「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と言われます(36節)。その証しは3つあります。
 第一は、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(36節)。業による証しです。この言葉から、ヨハネ福音書第3章のニコデモとの対話を思い出します。ファリサイ派の議員であったニコデモは、イエスの言葉と行いを見て、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」(ヨハネ3:2)と言いました。イエスの業を通して、ニコデモは、イエスには神が共におられると受けとめました。
 第二に、「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(37節)。父なる神による証しです。ヨハネ福音書第14章のイエスの言葉を思い出します。弟子たちとの食事の席でイエスは言われました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。…わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:7、9)。わたしたちの肉体の目では父なる神を見ることはできませんし、耳で神の声を聞くことはできません。イエスによって父なる神を見て、神の声を聞くのです。
 第三に、「聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)のとおり、神の言葉による証しです。ヨハネ福音書あるいは新約聖書において「聖書」とあるのは、現在の旧約聖書を指しています。ルカ福音書第24章の、エマオに向かう二人の弟子たちに復活のイエスが同伴してくださった出来事を思い出します。まずは二人の話をよく聞いたうえで、イエスは聖書を説き明かしてくださいました。「『メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:26~27)。
 この証しがあるのに「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(40節)とイエスは言われます。何がイエスのもとへ行くことを阻んでいるのでしょうか。「あなたたちの内には神への愛がない」(42節)、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」(43節)と、鋭く問われます。人から認められ、人から良く思われることを求めている彼らの偽善の罪を、イエスは明らかになさいました。「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」(45節)とは不思議な言葉ですが、これは、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申命記18:15)のことでしょう。
 神への愛とは神への信頼と従順です。イエスに倣い、神の言葉を聞いて従うことができますように、祈ります。