2024年11月3日(日) 降誕前第8主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 493
主の祈り
交読詩編 詩編23篇
祈 祷
賛 美 385
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第6章1~15節
子ども説教
説 教 「無駄にならないように」
賛 美 543
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸に弟子たちと共に行かれ、山に登られました。そこへ大勢の群衆がイエスの後を追ってやってきました。イエスは弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。フィリポは、「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。1デナリオンとは当時の一日分の賃金です。半年以上休まず働いて得られる金額でも足りないほど、大勢の群衆が押し寄せていました。そのとき、弟子のアンデレがこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。そこでイエスは「人々を座らせなさい」とお命じになり、少年が差し出したパンを取り、感謝の祈りを唱えて、座っている人々に分け与えられました。魚も同じようにしました。まことに不思議なことにパンも魚も尽きることなく、そこにいた人々皆が満腹しました。男たちだけで約5千人でしたから、女の人や子どもたちも含めたら、本当に大勢の人がいました。残ったパンの屑を集めると、12の籠がいっぱいになりました。しかしこの奇跡は「イエスさまのおかげで、お腹いっぱいになって良かったね」ではなく、残念な終わり方をしています。イエスは、人々が自分を王にするために連れて行こうとしていることが分かると、人々から離れ、山に退かれました(15節)。人々が、イエスが一緒にいてくれたら食べていける、と考えたからです。人々が求めていたのは、自分たちの願い通りにしてくれる王だったからです。
10節の「イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座った」光景は、本日、交読した詩編第23篇の御言葉と響き合う思いがします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(詩編23:1~3)。旧約聖書には、主なる神は羊飼い、神の民は羊という信仰の理解があります。新約聖書では、イエスご自身が「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と宣言しておられます。羊という動物は、独りでは生きていけないそうです。また、遠くまで見ることができません。羊飼いに導かれなければ生きていけないのです。そんな羊の特徴を聞くと、人間も同じだな、と思います。だれも独りで生きていくことはできません。先まで見通すこともできません。
本日は、召天者記念礼拝で、すでに神のみもとに召された方々を記念しています。この中には、突然に、地上の生涯を終えられた方々が少なくありません。ご家族にとって思いがけない死でありました。私たちも、知識や経験を用いて暮らしていますが、本当に明日、命があるかどうか、だれも分かりません。
詩編第23篇の信仰に生きた人々もおりましたが、神の民イスラエルの歴史を見るならば、神を神として生き抜くことができず、国は滅びました。神に従わず、自分たちの願い通りにしてくれる神を求める、人間の自己中心があるからです。
そんな人間を救うために、神は、まことの羊飼いとして主イエス・キリストを世に送ってくださいました。本日の説教題は12節の「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」から取りましたが、この「無駄にならないように」は、ヨハネ福音書第3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」の「滅びないで」と、原語で同じ言葉なのです。神の救いの恵みが無駄にならないように、あなたが滅びることがないように。主イエスの思いがここにあります。