2024年11月10日(日) 降誕前第7主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   16
主の祈り
交読詩編  詩編77:17~21
祈  祷
賛  美   361
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第6章16~21節
子ども説教
説  教  「わたしだ、恐れるな」
賛  美   530
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 イエスが、五つのパンと二匹の魚を増やして、男だけで5千人の人々を満たされた後、人々から離れ、山に退かれました。弟子たちは湖畔へ下りて行き、自分たちだけで、カファルナウムに行こうとして、舟を漕ぎ出しました。強い風が吹いてきて、湖は荒れ始めました。舟が思うように進めず、弟子たちは困難に陥ったと思います。19節に「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ」とありますが、それは約5キロの距離です。岸にすぐに戻ることもできなかったでしょう。そんな中、何とイエスは湖の上を歩いて、弟子たちのいる舟に近づいて来られました。弟子たちは「イエスさまが来てくれた。良かった」と喜んだのではありません。「彼らは恐れた」のです。まさに恐るべきことでありました。恐れの中に、主イエスの力強い御声が響きます。「わたしだ。恐れることはない!」(20節)。おそらく、ヨハネ福音書の著者は、このイエスの言葉を教会の人々や福音書の読者にしっかりと聞いてほしかったのではないでしょうか。
 「わたしだよ」「ぼくだよ」と言われて通じるのは、家族同士など本当に親しい関係においてです(現代ではそれを逆手にとった「オレオレ詐欺」がありますが)。イエスが「わたしだ」と言われ、私たちは「あなたですね!」と応えることができる、まことに親しい関わりの中に入れていただいていることです。
それと同時に、「わたしだ」というイエスの言葉には特別の意味があります。旧約聖書出エジプト記第3章の出来事と関わりがあります。出エジプト記第3章では、モーセが神と出会い、民をエジプトから脱出させるための指導者として召し出されます。燃え尽きない柴を見に行ったところ、神に声をかけられ、使命を与えられ、驚くモーセでした。モーセは「イスラエルの民のところに参ります。すると民は、『あなた(モーセ)を遣わした神の名は何か』と、私に訊くに違いありません。何と答えたらいいでしょうか」と神に尋ねます。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト3:14)。神は、御自分の名は「わたしはある」だ、とモーセに明かされました。この「わたしはある」と、イエスが「わたしだ」と湖の上で語られた言葉は同じなのです。イエスが「わたしだ」とおっしゃったのは、ご自分が神であり、神の独り子であり、神からのメシア(キリスト)であると宣言なさったということなのです。
 ヨハネ福音書第6章4節には「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。過越祭は、エジプトからの脱出を記念する祭りです。神の民がエジプトから出て行くとき、神は葦の海の水を分けられ、イスラエルの民は海の中にできた道を歩いていきました。聖書では、海や湖、川は、神に逆らい、混沌をもたらす勢力を象徴しています。ですから、海の水を分けられたとは、神が水を支配なさることを示しています。湖の上をイエスが歩かれたとは、イエスが神であり、水(混沌)をも支配なさるお方であることを示しているのです。
 「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)。イエスに従うとは、イエスと共に舟に乗って旅をすることです。そうすると舟は目指す地に導かれます。ヨハネ福音書第6章59節に、イエスがカファルナウムの会堂で教えられたとあるので、「目指す地」とは、神礼拝ということができます。世にあって、風や波に悩まされる私たちに「わたしである」というイエスの宣言が響き渡るところ、それは礼拝です。私たちは主の声を聞き続けて生きるのです。