2024年11月24日(日) 降誕前第5主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 358
主の祈り
交読詩編 詩編12篇
祈 祷
賛 美 313
使徒信条
聖 書 ペトロの手紙一第2章18~25節
子ども説教
説 教 「私たちのための苦しみ」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 510
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
使徒信条の第2部(イエス・キリストを信ず)の『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』は、どういうことなのか、聖書の言葉に耳を傾けましょう。まず、ヨハネ福音書第18章28節~19章16節を通して見ていきます。
「ポンテオ・ピラト」とは人の名前です。主イエスを憎み、亡き者にしたいというユダヤ人指導者の企みで、イエスは捕らえられ、当時のローマ総督であったピラトのもとに連れて行かれました。ピラトは、ユダヤ人指導者たちの訴えを聞いて、「自分たちの律法で裁くがよい」と言いましたが、彼らは「自分たちには人を死刑にする権限がない」と言いました。当時、ユダヤの地域はローマ皇帝の支配のもとにあり、ある程度の自治は許されていましたが、ユダヤ人が死刑を執行することはできませんでした。ピラトはやむなくイエスを取り調べることにします。イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねました。イエスは落ち着いて、はっきり「わたしの国は、この世には属していない」と言いました。ピラトは驚いたと思います。イエスが、皇帝に逆らうことをしたなら処罰しなければならなかったでしょう。しかし、イエスただ独りであり、落ち着き払って、こう言ったので、ピラトはこの人には罰を受けるような罪はない、と分かりました。ピラトはイエスについて「何の罪も見出せない」と3度言っています(ヨハネ18:38、19:4、6)。聖書では「3」は完全を意味します。イエスには全く何の罪もないことを示しているのです。ピラトはイエスを釈放しようと努めました。罪のない人に刑を与えることはできないからです。恩赦を与えてはどうかと言ったり、ユダヤ人たちの気が済むように、イエスを鞭で打ち、茨の冠を被せてユダヤ人たちの前に引き出してみたりしました。けれどもユダヤ人たちは、イエスを「十字架につけろ」と要求し続けました。彼らは「この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と言いました。さらに、イエスを釈放しようとするピラトに対して、「私たちは、あなたが皇帝の味方ではないと訴えますよ。いいんですか」と脅しました。ピラトは彼らの脅しに屈し、イエスを十字架刑にすることを決めました。
私たちはピラトを見て、押し切られる人間の弱さがよく分かります。私もピラトと同じ立場であったらどうしていたでしょう。同じことをしたと思います。ピラトには、イエスを十字架に追いやった罪が問われます。ピラトは私なのです。
そこで、ペトロの手紙一第2章を開きます。「(キリストは)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(23~24節)。主イエスはピラトのためにも、ご自分を「十字架につけろ」と叫ぶユダヤ人たちのためにも、そして私たち一人ひとりのためにも、苦しみを受け、十字架で私たちの罪を担って死んでくださいました。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。イエスの傷によって、私たちは、死のとげである罪(霊的な意味での致命傷)からいやされました。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(24~25節)。私たちは魂の牧者であり監督者であるキリストの御腕の中にいます。「戻って来た」という表現も味わい深いです。本来イエスの御腕の中にいたのに、神なしで、神に逆らって自分中心に生きようと迷い出た羊となった私たち。今、おるべき場所に戻ることができました。もう迷うことはありません。