2024年12月8日(日) 降誕前第3主日・アドベント第2主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 242(1~2節)
主の祈り
交読詩編 詩編132:10~18
祈 祷
賛 美 56
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第6章48~59節
子ども説教
説 教 「生かされて、生きる」
賛 美 467
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
ヨハネ福音書第6章は、イエスは命のパンであり、イエスは命を与えてくださる方であり、イエスご自身が命であることが語られています。今日の箇所に至って、イエスは、聖餐のことを話しておられたのだと分かります。既に「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)と言われたとき、パンについて語りながら「渇くことがない」とも言われたのは、聖餐のことが先取りされていたからです。
さらに、第6章の冒頭で、イエスが、湖のほとりでパンを増やして、人々を養ってくださったときにも、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて…」(11節)とありました。これは聖餐の制定の言葉と同じ表現で、この出来事も、やがて教会が祝う主の食卓を先取りしていたことが分かります。
本日の礼拝では聖餐にあずかりますから、主イエスの言葉を、身をもって深く味わうことができるでしょう。それは、聖霊によらなければできないこと、信仰によらなければできないことです。
主イエスを追いかけてカファルナウムまでやってきた人々は、実際の食べ物のことを考えていました。ですから、主イエスの言葉を理解できず、言葉を文字通り受けとめて、驚き、戸惑いました。イエスは言われました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。これを聞いたユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めました(52節)。昔も今も、人の肉を食べるとは、全くとんでもないことで、あり得ないことです。恐らく主イエスは彼らの困惑をご存じの上で、さらに言われました。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)。これも、驚くべき言葉です。イエスは聖餐のことを語っておられるのですから、私たちは聖餐にあずからなければ生きていけない、とおっしゃっている。それほどまでのことなのです。教会はどれだけ切実に、イエスの言葉を受け止めているでしょうか。一方、聖餐を魔術的に理解する過ちに陥ることもあります。ある教会で年3回行っていた聖餐を「毎月しましょう」と牧師が提案したら、教会員が「そんなに回数が増えたら、ありがたみが無くなる」と言ったというのです。聖餐のパンとぶどう酒自体に、魔術的な効力があるのではなく、神の言葉によって、聖霊によって、信仰によって、私たちはパンをキリストの肉(体)として食べ、ぶどう酒(ぶどうジュース)をキリストの血として飲むのです。
そして、文字通りイエスの約束を信じるのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)。ここでは、将来の体の復活が約束されています。しかし、既に今ここで、私たちは、主イエスの恵みの中を生かされるのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)。この「おる」「いる」は、ヨハネ15章のぶどうの木のたとえで繰り返し出てくる、主イエスに「つながっている」の「つながる」と同じ言葉です。「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)の「とどまる」も同じ言葉です。聖餐によって、私たちは、いつもイエスにつながっていることが確かにされます。聖餐にあずかるごとに、主イエスが私の内にいつもとどまっておられること、私たちがイエスの中に、イエスの愛の中に、いつもとどまっていることも、確かにされるのです。