2025年1月19日(日) 降誕節第4主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   472
主の祈り
交読詩編  詩編135:1~14
祈  祷
賛  美   51
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第7章25~39節
子ども説教
説  教  「神を知る者は誰か」
賛  美   346
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 主イエスは、仮庵のお祭りの最後の日に大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37~38節)。ヨハネ福音書は続けて語ります「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(39節)。
 イエスの時代、仮庵の祭りはエルサレムの神殿で祝われていました。祭りの間、毎日、シロアムの池の水を黄金の器に汲んで、神殿に運び、祭壇に注ぐ儀式が行われていました。その儀式があったので、イエスは生きた水の話をされたのでしょう。
 もう一つ「生きた水が川となって流れ出る」というと、旧約聖書のエゼキエル書第47章の出来事が思い起こされます。預言者エゼキエルは、神によって神殿の幻を見させられました。その幻では、水が神殿の祭壇の南側から出て流れていきました。その水はどんどん増えて川となり、泳がなければ渡れないほどになりました。その川岸にはたくさんの木が生え、その水が海に入っていくと、海がきれいになるのです。魚も多くなります。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(エゼキエル47・9)のです。川岸には果樹が、毎月、実をつけます。本当に生き生きとしたすばらしい光景です。現実の神殿は、バビロニアに破壊されてなくなっていました。エゼキエルは捕囚の民と共にいた預言者でした。ですから、神によって見せられた神殿の幻は、将来の希望の約束だったのです。
 イエスの時代、ヘロデ大王によって建てられた神殿がありました。ではその神殿が、エゼキエルの預言の実現なのでしょうか。そうではありません。ヨハネ福音書第2章にこうあります。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し…」(ヨハネ2:21~22)。イエスが仮庵祭で言われた言葉は、イエスご自身の復活の体が新しい神殿であり、そこから生きた水が川となって流れ出るという預言でした。
 生きた水とは聖霊のことです。ヨハネ福音書第20章には、イエスの復活の知らせを聞いてもユダヤ人たちを恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちのところに、復活のイエスが来られた出来事があります。「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20:22)。イエスの預言が実現しました。今も、その御業は続いています。
 イエスが神殿で語られた言葉の中に、ご自分の起源、行き先、使命が示されています。「わたしはその方〔父なる神〕を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(29節)。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(33~34節)。イエスは私たちに語っておられます。「わたし〔イエス〕のいる所に、あなたたち〔私たち〕は来ることができない」とは、本当にそうなのです。私たち人間はそのままでイエスのところ、父なる神のところに行くことができません。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:3)というイエスの御業によって、私たちは神のもとへ行くことができるのです。