2025年1月26日(日) 降誕節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   156
主の祈り
交読詩編  詩編103:1~13
祈  祷
賛  美   290
使徒信条
聖  書   マタイによる福音書第27章57~66節
子ども説教
説  教  「死なれ葬られた救い主」
賛  美   575
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 使徒信条は、三位一体の神(父・キリスト・聖霊)への信仰を言い表す3部構成になっています。第2部はイエス・キリストへの信仰の告白と、キリストの救いの出来事です。本日は「死にて葬られ」の説教です。教会の信仰を短く言い表している使徒信条ですが、「死にて葬られ」を、省略することはできなかった、そこに、大きな意味があると思われるのです。
 教会では、特にクリスマスのときに、神の独り子が私たちと同じ人間としてお生まれになった、と語られます。一方で、イエスの地上の生涯の歩みは、私たちと同じではありません。聖霊によって命が宿ったことも、十字架につけられたことも、イエスだけの歩みです。十字架刑に処せられた人は他にもいたでしょうが、罪の贖いとしての死はイエスだけのものです。けれども、「死んで葬られ」に至っては、イエスと私たち人間の歩みが重なるのです。ここにいる私たちは皆、必ず死にます。葬られます。イエスも私たちと同じように、確かに死なれ葬られた方なのです。
 本日は、マタイ福音書からイエスの葬りの出来事を見てまいりましょう。イエスは、金曜日に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取られました。ユダヤ教では、金曜の日没から土曜の日没までが安息日で、外出も仕事もしてはならない日です。そのため、主イエスを葬るならば、その日の日没までに終えなければなりません。しかし、伝道の旅を共にした男の弟子たちは、イエスがゲツセマネで捕らえられたとき、逃げて、隠れていました。女の弟子たちは十字架のイエスを見守っていましたが、彼女たちはこの世的には何の力もありません。
 ところが―神が備えられたと言うべきでしょう―アリマタヤのヨセフが、ローマ総督ピラトに、イエスの遺体の引き取りを願い出たのです。家族でもない者が遺体を引き取ること自体、異例のことでした。ルカ福音書にはヨセフは議員であったとあります。金持ちでもあったので、政治的・経済的な力を用いたのかもしれません。それでも、イエスの遺体を引き取るとは、勇気の要ることだと思います。ヨセフは、主イエスの言葉と行いに心打たれていたのです。安息日が始まろうとするとき、ヨセフは、今、自分にできることをしたのだと思います。ヨセフは墓を自分のために用意していました。岩に掘った新しい墓に、イエスの遺体をきれいな亜麻布で包んで、納めました。その後、ユダヤ当局の人々は、ピラトに願い出て、イエスの墓に封印をし、番兵を置きました。
 本日の礼拝で、讃美歌21-290番「重い墓石をもけやぶり…おどりの主イエスはよみがえり…」とうたいました。死がなければ復活はありません。イエスは復活し、墓を後にされました。
 これは想像ですが、イエスが復活されたという知らせを、アリマタヤのヨセフは聞いて、信じたと思うのです。ヨセフは、自分の生涯が終わりに近づいたとき、イエスが自分の墓に葬られ、復活されたことを思い、やがて自分も葬られた墓から復活させられるのだ、と信じることができたのではないでしょうか。私たちもアリマタヤのヨセフと同じように信じることができます。
 ヘブライ人への手紙第2章14~15節に「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」とあります。救い主が死んで葬られるとは、人間の知識や経験からは考えられません。神の出来事なのです。神が信じさせてくださるのです。イエスの死は、私たちを死の恐怖・悪魔の支配から解放するためでした。私たちは、イエスと共に死に、イエスと共に生きる恵みに生かされています。