2025年2月2日(日) 降誕節第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 404
主の祈り
交読詩編 詩編42:1~7a
祈 祷
賛 美 458
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第7章37~53節
子ども説教
説 教 「生ける水のあるところ」
賛 美 432
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」(37~38節)。この「祭り」とは仮庵の祭りです。神の民が荒れ野で天幕(仮庵、仮小屋)に住み、荒れ野の旅を神が守ってくださったことを記念する祭りです。主イエスの時代にはエルサレム神殿で祝われ、祭りの間は毎日、シロアムの池の水を黄金の器にくんで神殿に運び、祭壇に注ぐ儀式が行われました。祭りの最終日は盛大に祝われ、人々は大いに盛り上がっていたと思います。しかし、仮庵祭の起源を思い起せば、荒れ野の旅は、生きるか死ぬかという過酷な日々でした。水がなければ人は生きることができません。荒れ野の旅では、神が民に水を与えてくださいました。立ち上がって大声で叫ばれた主イエスの言葉を聞くと、本当の意味で人が生きるためには、シロアムの池の水や素晴らしい黄金の器、さらには、エルサレムの神殿が必要なのではないことが分かります。まことの神殿である主イエス(ヨハネ2:21)のところに行って、生きた水を飲むこと。それによって人は生きることができるのです。そこには、何の分け隔てもありません。
このイエスの言葉を聞いた人々の反応が描かれているのも、大切だと思います。イエスの言葉をどう聞くのか、私たちも問われているからです。群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」(申命記18:15、18に約束されているモーセのような預言者)と言う者や、「この人はメシア(キリスト、救い主)だ」と言う者がいました。当時の人々の中に、預言者やキリストを待望する思いがあったことを示しています。一方で、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出る」と言う人もいました。マタイやルカ福音書は、イエスがダビデの子孫で、ベツレヘムでお生まれになったことを示していますが、ヨハネ福音書はそれには関心がありません。
ユダヤ人指導者たちは、下役たちにイエスを捕らえさせようとしましたが(ヨハネ7:32)、捕えることができませんでした。下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えました(46節)。これは大胆なことです。下役たちはユダヤ当局の指示に逆らったことになりますから。マタイ福音書第7章の言葉を思い出します。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ7:28~29)。下役たちは新しい言葉を聞いて打たれたのです。
ユダヤ人指導者たちの目には、下役たちまでイエスに惑わされてしまったとしか見えませんでした。「人々がもっと惑わされてしまう、イエスを片付けなければ」としか思えませんでした。しかしそのとき、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが、律法に則した正しい意見を述べましたが、それも一蹴されてしまいました。指導者たちにはイエスに対する先入観と偏見がありました。それは他人事ではありません。
十字架の出来事とは、「だれでも来て飲みなさい」とイエスが言われたのに、だれもイエスのところに来なかったということです。人は、神の独り子の言葉と存在を抹殺しました。こうしてイエスの十字架は人の罪を鮮やかに示すのです。十字架にはもう一つの面があります。私たちの人間の罪を赦すために、イエスは十字架から逃げずに命を献げてくださったのです。イエスの招きは「だれでも」、つまり、罪ある私たち人間すべてに向けられています。イエスのもとに来る人は生ける水によって生かされるのです。