2025年2月9日(日) 降誕節第7主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 206
主の祈り
交読詩編 詩編130篇
祈 祷
賛 美 58
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第8章1~11節
子ども説教
説 教 「解放―赦されて生きる」
賛 美 481
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
礼拝音声は聖餐部分をカットしています
〔説教要旨〕
ヨハネ福音書第7章は仮庵の祭りの出来事でした。イスラエルの民がエジプトを脱出し、約束の地へ向かう荒れ野の旅を神が守ってくださったことを感謝する記念のお祭りでした。7章には、その感謝の祭りのただなかで、イエスを苦々しく思っているユダヤ人指導者たちの姿が示されています。彼らにとって、イエスは偽預言者であり、彼らは「人々がこれ以上惑わされてはならない。イエスを片付けなければならない」と考えていました。彼らは、訴える口実を得るためにイエスをわなにかけました。姦通の罪を犯した女を利用したのでした。
主イエスが、朝早く、神殿の境内に入られると、イエスの言葉と行いに心を打たれた人々が、教えを聞こうと集まってきました。そこでイエスは、座って教え始められました。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が近づいて、何と姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て(相手の男もいたはずなのに、女だけが連れて来られたことも疑問ですが)、人々の真ん中に立たせて、イエスに言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4~5節)。「律法の中で」とある通り、旧約聖書のレビ記第20章10節、申命記第22章22節によれば、姦淫した男も女も死に値する罪だと定められています。彼らは「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言った」のでした(6節)。もしイエスが「この女を殺したらよい」と言ったら、今までイエスが語っていた説教は何であったか、ということになります。また当時、ユダヤはローマ帝国の支配にあり、ユダヤ人は人を死刑にする権限を持っていないため、そのことでイエスを責めることができます。一方「殺すな」と答えたら、モーセの律法をないがしろにした、神を冒瀆していると責めることができます。どちらにしても、イエスを訴えることができると、彼らは考えました。
イエスがなさった行動は、思いがけないことでした。まず、すぐにはお答えにならず、恐らく黙ったまま、かがみ込み、指で地面に何かを書き始められました。言葉尻を捕らえようとしていた彼らはしつこく「あなたはどうお考えになりますか」と問い続けました。そこでイエスは身を起こして、言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。そして再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられました。
イエスのお言葉は、人間から出たものではなく、天からの言葉、上からの言葉、外からの言葉でした。もちろん神の言葉に適うことでした。旧約聖書のコヘレトの言葉第7章20節「善のみ行って罪を犯さないような人間は この地上にはいない」とあります。聖書に通じていた人々はこの言葉を思い出したかもしれません。
だれも、何も言うことはできませんでした。イエスの言葉を聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女が残りました。イエスは、身を起こして言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)。女は「主よ、だれも(罪に定めませんでした)」と言いました。
イエスはこの女が罪を犯したことをご存じの上で、「わたしもあなたを罪に定めない」と言ってくださいました。それは、やがてイエスが十字架で、この女の罪もユダヤ人の罪も私たちの罪も負ってくださるからです。主イエスは、私たちに罪の赦し、罪からの解放を与えて、言われます。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。これが主の御心です。