2025年2月16日(日) 降誕節第8主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 236
主の祈り
交読詩編 詩編34:1~11
祈 祷
賛 美 503
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第8章12~20節
子ども説教
説 教 「命の光を持っているか」
賛 美 509
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』」(12節)。
ヨハネ福音書第7章は仮庵の祭りの出来事であると、繰り返し申しました。仮庵祭は、イスラエルの民がエジプトを脱出し、約束の地へ向かう荒れ野の旅を神が守ってくださったことを感謝する記念のお祭りです。実は、この第8章12節の主イエスのお言葉も、仮庵祭が背景にあります。仮庵祭は光の祭りでもありました。神殿の領域の「婦人の庭」には、大きな燈火が灯されて、遠くからも見えるほどであったそうです。荒れ野で神の民を導いた「火の柱」を記念する大燈火でした。その燈火の掲げられている神殿で、イエスは、ご自分が、神の民のためばかりでなく、世のための光、すべての人のための光であり、命の光を与える者である、と宣言なさったのです。
この命の光をいただいたキリストの証人を紹介したいと思います。朝日新聞に「それぞれの最終楽章」という連載記事があります。毎週土曜に、医療や介護の専門家が出会った患者さんや利用者さんが、最期の日々をどう迎えたかをまとめた連載で、私は毎週、興味深く読んできました(朝日デジタル版では翌日曜日に、詳細な記事がアップされます)。いつもは専門家ですが、先月の中旬から、この連載の企画をされた新聞記者のSさん自ら、ご自分のお父様の看取りに至る出来事を書いておられます。
2月1日の記事には、有料老人ホームにおられるお父様が、大腿骨骨折され、退院後車いす生活になり、体力が落ち、食事もあまり取れなくなり、死を願うようになりました。紙に「薬での自死、希望したい。この状態で生きるのは耐えられない」「家族会で自死認める念書、書かせてください」とメモを書かれました。お母様が、息子さんたちにLINEでメモを見せて連絡が来て、Sさんはショックを受けたとありました。
ところが、その翌週2月9日の記事がうれしい驚きで、そのお父様が洗礼を受けたという内容でした。お母様が、日本基督教団代田教会の信徒で、ホームに牧師が訪問し、お母様のために聖餐式を行ったときに、共におられたお父様に、平野克己牧師が洗礼を勧めたところ、ぜひお願いしますと答えました。お父様の誕生日の翌日に、施設の一室を借りて洗礼式を行うことになり、記事を書いている記者のSさんも参加。洗礼を受けた後、お父様はこう言われました。「あー、これで目の前が明るくなりました」。洗礼を受けると、お父様とお母様は、いっしょに讃美歌をうたい、お祈りをするようになりました。洗礼を受けてから、お父様は「早くあの世に行きたい」ということは、言わなくなりました。
さらにその次の2月15日の記事では、お父様の職歴などが書かれていて、大学も出られ、銀行に勤められ、有能な方だったということが分かりました。それを読んで、立派な過去の業績も、大切な家族であっても、Sさんのお父様の「死にたい」という気持ちをどうすることもできなかったのに、お父様がキリストの救いに与かり「目の前が明るくなりました」と言えたこと、死にたいと言わなくなったとは、今朝のヨハネ福音書のとおり、まさに、この方は、命の光を持ったと言えるのではないでしょうか。この洗礼の出来事が、大手新聞の記事になり、証しとなったことにも、神のお計らいを感じます。
私たちも皆、この12節のイエスの力強い宣言を、本当にそうだと受け入れると思いますが、ヨハネ福音書ではその言葉を聞いて、ファリサイ派たちと議論となってしまいました。しかし、彼らに語る言葉の中にも、イエスは御自分が父なる神といつも共にあり、父に遣わされたことを証ししておられます。