2025年2月23日(日) 降誕節第9主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 4
主の祈り
交読詩編 詩編139:1~12
祈 祷
賛 美 194
使徒信条
聖 書 ペトロの手紙一第3章18~第4章6節
子ども説教
説 教 「陰府にもおられる主」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 377
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
使徒信条は、三位一体の神(父・キリスト・聖霊)への信仰を言い表す3部構成になっています。第2部はイエス・キリストへの信仰の告白と、キリストの救いの出来事です。本日は「陰府にくだり」。「陰府」とは「死者のいるところ」です。陰府にもキリストがおいでになられたのです。
この信仰の言葉の根拠になったのは次の御言葉です。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)。「捕らわれていた霊たち」とは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です(20節)。
ここで、創世記のノアの物語を思い起しましょう(創世記第6~9章)。地上には人が増えていましたが、神に従う人はおらず、神は心を痛めておられました。神は、洪水を起こして、やり直すことをお決めになりました。そのような世界の中で、ノアだけは神に従う人でした。神はノアに箱舟を作るように命じました。神の命令に従い、ノアは木を用意し、大地に箱舟を作りました。もしかしたら、人々がノアは何を作っているのか尋ねたかも知れません。ノアは、神のご計画(洪水)を話したかもしれません。箱舟が出来上がり、そこに入ったのは、ノアとその家族の8人だけでした。他に多くの動物と空の鳥が入れられて、神が箱舟の戸を閉められました。神がノアに語られた通り、雨が降り続け、洪水が起こり、地は水で覆われ、人々は死にました。教会は、この物語から、箱舟は主イエスの救いであり、教会を指している、と信じ、語ってきました。
今日の聖書の箇所は、水で滅ばされてしまった人に注目している点が貴重だと思います。それは、ノアの洪水で滅ぼされた人ばかりでなく、「キリストの救いを信じないで死んだ人は、いったいどうなるのか」という問いへの答えでもあるからです。特に、キリスト者が少数のこの国で、私たちにとっても切実な問いです。
聖書は「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)と宣言しているのです。ペトロの手紙は、使徒ペトロにちなんでいます。恐らく、復活され、弟子たちと共に過ごしたとき、主イエスがペトロに、陰府に宣教に行かれたと語ってくださったのではないでしょうか。
陰府にも神の支配は及んでいるという信仰は、詩編にあります。「陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(詩編139:8)。神が神であられるならば、神の支配の及ばないところはないのです。陰府にも神はおられるとの信仰の言葉です。さらに「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない」(詩編139:12)とまで語られています。神の光は陰府にも差し込んでいるのです。光の主であるイエスは陰府にもおられるのです。
さらに興味深いのは、「洪水」が洗礼を示しているという信仰の理解です(21節)。確かに洪水は、神に従わない人々への裁きでした。洗礼において(特に浸礼式では、目に見えて分かりやすいですが)、水は、キリストと共に死んで、キリストと共に生きるというしるしです。ですから、水は裁きも示しているのです。
「キリストは肉に苦しみをお受けになった」(4章1節)のは、私たちのためでした。それは私たちが「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(4章2節)。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(4章6節)。神は生きることを求めておられます。