2025年3月2日(日) 降誕節第10主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   351
主の祈り
交読詩編  詩編119:129~136
祈  祷
賛  美   192
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第8章21~38
子ども説教
説  教  「真理による自由」
賛  美   472
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 「真理はあなたたちを自由にする」(32節)。この言葉にうなずく人は多いのではないでしょうか。しかし、これがイエス・キリストの言葉であり、どういう文脈で語られているかは、知られていないと思います。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31~32節)。主イエスの言葉にとどまるとき、イエスの弟子となり、真理を知るのです。「とどまる」という言葉に、ヨハネ福音書第15章のイエスが話されたぶどうの木のたとえを思い出します。ぶどうの幹であるイエスにつながっている(「とどまる」と同じ語)ならば、その枝(私たち)は豊かに実を結びます。キリストの言葉にとどまり、キリストの愛にとどまることです。ヨハネ福音書で真理とはキリストです(ヨハネ(14:6)。真理を知るとは、キリストを知ること。キリストが私たちを自由にしてくださるのです。
 この言葉を聞いたユダヤ人たちは、意味が分からず、イエスに問い返しました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」(33節)。歴史的に見れば、イスラエルの民はエジプトで奴隷であったこともありますし、バビロン捕囚もありました。イエスの時代にはローマ帝国の支配下にありました。神の選びの民である、という誇りによってこのように言ったのかもしれません。イエスは言われます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(34節)。イエスが問題にされているのは、神との関係でした。アブラハムの子孫であっても、異邦人であっても、罪を犯す者はだれでも罪の奴隷です。そこから解放することができるのは、神の独り子であるイエスだけです。「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(36節)。慰めに満ちた約束です。
 本日の聖書箇所で、イエスの言葉の中に3度繰り返されているのは「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21、24節)という言葉です。そして、それをはさむようにして2度「わたしはある」とイエスは言っておられます(24、28節)。罪の奴隷のままであるならば、私たちは自分の罪の内に死ぬことになります。私たち人間は皆、そうなのです。主イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)と言われました。それは裏を返せば、イエスが「わたしはある」ということを信じるなら、だれでも、自分の罪の内に死ぬことはない、という約束になります。
 イエスは、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」(28節)と言われました。「人の子」とは主イエスご自身です。「上げる」とは十字架の出来事です。「わたしはある」とはどういうことでしょう。これは、ヨハネ福音書第6章で、既にイエスが宣言しておられました。舟で、湖の向こう岸に向かっていた弟子たちは嵐に見舞われました。イエスは湖の上を歩いて弟子たちに近づき「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6:20)と言ってくださいました。この「わたしだ」は「わたしはある」と同じことなのです。湖の嵐とは神に逆らう力(罪、死、悪)の象徴です。イエスはこれらを支配なさるお方なのです。「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)とイエスは言われました。これは十字架の出来事を指しています。イエスだけが果たされる十字架の救いによって、私たちは、イエスが「わたしはある」というお方だと信じることができるのです。