2025年3月9日(日) 復活前第6主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   153
主の祈り
交読詩編  詩編131篇
祈  祷
賛  美   533
日本基督教団信仰告白
聖  書   マルコによる福音書第14章32~42
子ども説教
説  教  「目を覚まして祈る」
賛  美   440
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 今年のレントは、マルコ福音書から十字架に向かわれる主イエスのお姿を仰ぎたいと導かれました。
 本日の聖書箇所は、信仰生活の長い方は何度も読んだことがあると思いますが、このイエスの祈りのお姿を見るとき、私たちは決して「もう、分かっている」などと言えないと思います。
 マルコ福音書第14章1節には「過越祭と除酵祭の二日前になった」とあります。ベタニアで香油を注がれる出来事(マルコ14:3~9)、ユダの裏切りの企て(同10~11節)、その翌日の過越の食事とそこで定められた主の晩餐(現在の聖餐式)の出来事が記されています(同12~25節)。この過越の食事を終えて、イエスと弟子たちはオリーブ山へ向かいます(26節)。その途中で、イエスはペトロの離反を予告されました(30節)。ペトロは「あなた(イエス)のことを知らないなどと決して申しません」と言い張りました(31節)。
 そして、イエスと弟子たちはオリーブ山のゲツセマネに着きました(32節)。イエスは、12人の弟子のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われて、さらに進んで行かれました。彼らの前で、イエスは、ひどく恐れてもだえ始め、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。イエスは強がることはなさいません。悲しんでいないふりはなさいません。私は悲しみの余り死ぬほどであると、弟子たちにご自分を現わされています。
 イエスは、十字架の出来事を前にして、苦闘の祈りをなさいます。彼らから少し距離を置いて、地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られました。
 イエスが、弟子たちのところへ戻られると、彼らは眠っていました。過越の食事のごちそうやぶどう酒を飲んで、また、オリーブ山まで歩いていましたから、眠くて仕方なかったかもしれません。けれどもそれはイエスも同じはずです。しかし、イエスは決定的な時を前にして、目を覚まして祈っておられました。弟子たちはそのときを悟っていませんでした。
 私たちにもイエスは「目を覚まして祈っていなさい」と言われます。目を覚まして何を見るのか、イエスのお姿、この祈り、をしっかりと見つめることだと思わされました。もう一度、イエスの祈りに耳を傾けます。
 まず「アッバ、父よ」。「アッバ」とは、当時の人々が語っていたアラム語で、幼子が父を呼ぶ言葉です。日本語なら「お父ちゃん」とか「パパ」とかでしょうか。神を「父よ」と呼んでよいのだと、イエスは私たちに教えてくださいました。次に「あなたは何でもおできになります」、つまり、「あなたにできないことは何もありません」という神への信頼であり、賛美です。そして、心を注いで祈られます。「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように。この杯をわたしから取りのけてください」と。神からも人からも捨てられ、神の裁きを受けるという苦しみの杯は、イエスでさえ易々(やすやす)と受け取ることはできませんでした。しかし、ここで祈りは終わりません。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。私たちがいつも祈る「主の祈り」も同じです。祈りはここにまで至るのです。イエスは眠り込んでしまった弟子たちを憐れんで「心は燃えても、肉体は弱い」と言ってくださいました(38節)。
 「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(41~42節)。救いの時は来ました。この苦闘の祈りを三度繰り返されたイエスは、父の御心である十字架を引き受け、進み行かれます。