2025年3月16日(日) 復活前第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   208
主の祈り
交読詩編  詩編36:1~10
祈  祷
賛  美   58
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第14章53~65節
子ども説教
説  教  「裁きを受ける救い主」
賛  美   361
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 本日の聖書箇所は、最高法院でイエスが裁かれる出来事です。現代の私たちの社会でも裁判があり、正しい裁判がなされることが当然です。けれどもこの裁判では、最初からイエスを死刑にすると決めていました。イエスを裁く人々には「この男は、人を惑わす教えを触れ回っているやっかい者だ。このままにしてはいけない。片付けなければならない」という思いがありました。それでもその裁判は、モーセの律法に従って手続きを踏んでおりました。律法では、必ず複数の人の証言によって死刑に定められるのです。イエスについて証言が出されましたが、食い違っていたので死刑に決められませんでした。このように描きながら、聖書は、主イエスには罪がないと伝えているのです。
 裁判の間、ずっと黙っておられたイエスが、ただ一度お語りになりました。大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いに対してお答えになったのです。「そうです」。イエスは「私が神からのメシア、キリストであり、王であり、救い主である」と、ここではっきりと宣言されました。大祭司は「神を冒涜した」と言い、全員がイエスを死刑にすることを決めました。ここで大切なことを聖書が伝えています。イエスは、偽りの証言で死刑になったのではなく、ご自分が王である、キリストである、神の子であるという本当のことを言われて、死刑に定められたのです。そこに私たち人間の罪の深さがあります。生まれたままの人間は、イエスが救い主であるという良き知らせを信じないのです。イエスは、そのような私たちの罪を全部その身に引き受けてくださるのです。この最高法院の人々のためにも、弟子たちのためにも、全ての人々のために、主イエスは、人々の罪をその身に引き受けて十字架に向われます。
 マルコ福音書の少し前のところを見ますと、ペトロは主イエスから「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に三度、私を知らないと言うだろう」と予告されました(マルコ14:30)。そう言われたペトロは、力を込めてイエスの言葉を拒否して、「そんなことは絶対にしません」と言いましたが、イエスが捕らえらえたとき逃げてしまいました。しかしその後、ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の中庭まで入っていき、火にあたっていました。
 私たちが主イエスに従うとは、ペトロのように従うことなのでしょうか。遠く離れて、距離をおいて「イエスさまはどうなるのだろう」と、イエスを心配して、他の者に紛れて、闇に紛れて、イエスに従うのでしょうか。今、こうして一時間ほどの主日礼拝をささげ終わると、私たちは礼拝堂を一歩出て、礼拝よりもずっと長い時間、日々の暮らしをしていきます。礼拝堂の外で、私たちはどのように主に従っているのでしょうか。どういう姿を見せているのでしょうか。ペトロの姿から問われます。
 次に、神殿についての証言をマルコ福音書記者が書いたことを大切に聴きたいと思います。この裁判の証言は食い違っていたのですけれども、これに近いことを主イエスは、地上の宣教において繰り返し語っておられました。他にも多くの教えを語られたのに、神殿に関わる事柄がここに記されていることを、私たちは大事に聞きたいと思うのです。イエスは、人の手で造らない別な神殿をお建てになると、繰り返し語っておられました。イエスが世に来られたのは、手で造らない新しい神殿による礼拝を、地上にもたらすためでした。私たちが救われて神の子とされるとは、神を神として、神を父として、まことの礼拝をささげる新しい人間になることです。霊と真理の礼拝をささげる人間になることです。それが救いです。それは建物にはよらないのです。イエスの体である教会が新しい神殿です。そこに神の臨在があります。