2025年3月23日(日) 復活前第4主日
礼拝順序

〔教会創立75周年記念礼拝〕

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編100篇
祈  祷
賛  美   192
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第14章1~14節
説  教  「道、真理、命」
        〔説教者:横山基生先生(志木教会牧師)〕
賛  美   522
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 創立75周年記念礼拝にお招きいただき、久し振りに母教会をお訪ねし、皆様にお会いでき、心から感謝します。母教会の歩みを振り返り、これからの教会形成のことを考えるに、このヨハネ14章の御言葉へと導かれました。
 私が東京聖書学校でお世話になった久田昌明先生が、よくこう言われていました。「キリスト教は、『キリスト道』とすべきであった」。「教」という漢字が付くと、頭で理解する教えというイメージが強いが、「道」となると福音の豊かさに生きるという霊的な命の面を際立たせることができからです。
 主イエスは「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことはできない」(ヨハネ14・6)と述べ、ご自分が唯一の救いの道であることを宣言しておられます。父のもとに私たちが行くとは、「放蕩息子」(ルカ15章)で描かれているように、愛の神との関係の回復であり、救いです。主イエスを通り、罪の赦しをいただいて初めて、私たちは父なる神の許に立ち帰ることができます。
 主イエスは、父なる神を知る道です。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる、いや既に父を見ている」(7節)。私たちは、父なる神がどのようなお方であるかを、主イエスを通して知ることができます。漠然と父なる神との関係が回復するのではなく、私たちを造られた神が、どのようなお方であるかをしっかりと知った上で、その神を礼拝する民となれるのです。
 主イエスを通して、私たちはその宣教の御業に関わることになります。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。さらに、この大いなる宣教の働きに祈りをもって参加するように、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」(13節)と、主は弟子たちを励ましています。
 主は私たちに、ご自分に見習う道を示しておられます。弟子たちの足を洗って「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13・15)と教えておられます。私たちを造り変えてくださるお方が、このように私たちを新しくしようとしてくださっていることを覚えましょう。
 主イエスは、御自身が真理でもあると強調されました。ヨハネ1章14節でも、主は「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記されています。ここで真理とは哲学的な真理を意味するのではなく、神ご自身が内に持っている正しさ、愛、知恵、を意味します。主の真理をいただく時、全ての偽りの教えや、悪しき者からの誘惑や欺きから守られ、命の道を保ち続けることができます。
 どのように私たちは真理に留まることができるでしょう。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・31~32)。この聖句と主御自身が「言(ことば・ロゴス」(ヨハネ1・1)であることを覚えるとき、主イエスご自身に留まり続けること、主との日々の交わりの大切さが分かります。そして私たちは主の弟子となり、主の御心に生きる自由が与えられます。
 主はさらに、命であると宣言されています。ヨハネ福音書では、命または永遠の命という言葉を用いて、主が私たちに与えようとしてくださっている救いを表現しています。主イエス御自身が、私たちの救いであり、生き生きとした日々の歩みを可能にする命そのものであることがわかります。この命に与り続ける秘訣は何でしょう。熱いものに触れるとその熱が伝搬するように、命に満ち溢れておられるお方に触れ続けるとき、主が語られる言葉にとどまり続けるとき、自然と天的な命が私たちに宿り続けるのです。
 主イエス御自身の内に、私たちに与えられる、天的な全ての恵みや救い、祝福の宝が満ち溢れています。この主が示される道に歩み、この主につながり続けるとき、私たちは主の弟子として整えられ、全く自由が与えられ、主に似る者とされます。この恵みに生きるために、共に礼拝をささげ、共に祈り合い、この恵みの交わりに友や知人を招き、主を礼拝する民の輪を広げていきましょう。