2025年4月6日(日) 復活前第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   438
主の祈り
交読詩編  詩編1篇
祈  祷
賛  美   304
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第15章6~20節
子ども説教
説  教  「命を献げる真実の王」
賛  美   513
役員任職式
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は役員任職式をカットしています〕


〔説教要旨〕

 主イエスが捕えられる前、まだ弟子たちと共に過ごしておられたときに、こう語られました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10:45)。この言葉を心に留めつつ、本日の聖書箇所から、神の言葉を聞きたいと思います。
ゲツセマネの園で捕らえられたイエスは、ユダヤの最高法院で裁きを受けられました。神を冒瀆した罪で死刑が決まりました。当時、パレスチナはローマ帝国の支配下にあり、最高法院だけで死刑執行にはできませんでした。恐らく最高法院の人々は、ローマ人の手によってイエスを死刑にしたかったのだと思います。彼らは、ローマ総督ピラトのもとにイエスを引いて行きました。ピラトはイエスを尋問する中で、イエスは何も悪いことをしていないことを知りました。
 当時、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していました(6節)。またそのころ、人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいました(7節)。ローマ総督のピラトは、暴徒のバラバを釈放するよりも、イエスを釈放するほうがよいと考えたのでしょう。イエスという男には味方がおらず、ローマ帝国に逆らう行動も起こしていません。ですから群衆が押しかけて恩赦を要求したとき、ピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」(9節)と言いました。ところが、ユダヤの祭司長たちが群衆を扇動し、心理操作をして、バラバを釈放するように求めさせました。なおもピラトは「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言い(12節)、「いったいどんな悪事を働いたというのか」(14節)とも言って、イエスを釈放させようとしましたが、群衆の「十字架につけろ」という叫びがやまず、ピラトは群衆を満足させようと思い、その要求を受け入れました(15節)。
 今日の聖書箇所の6~15節の中に「釈放する」という言葉が4回出てきます。キーワードです。「解き放つ」と言ってもよいでしょう。実は、このイエスの裁きとバラバの釈放の出来事に、私たちの救いが示されているのです。私はバラバ。バラバは私です。私たち人間は皆、自分の犯した罪のために死を待つばかりで、それをどうすることもできませんでした。しかし、イエスが捕らえられて、十字架刑に定められることによって、バラバは解き放たれます。つまり、私たち一人ひとりのために、イエスが身代わりになって、十字架で死なれることによって、私たちは、罪と死と悪から解き放たれ、生かされる。この救いを、マルコ福音書は告げ知らせているのです。
 イエスの十字架が、過越祭のときに起きたことも神のご計画です。過越祭とはどういう祭りでしょう。神によってイスラエルの先祖たちがエジプトから救い出されたことを祝う祭りです。エジプト人の長子と家畜の初子を打つという災いが降されたとき、入り口の柱と鴨居に小羊の血が塗られていたイスラエルの家々では、その災いが「過ぎ越し」ました。教会は、その過越の小羊は、イエス・キリストを指し示していると信じています。
 イザヤ書第53章の苦難の僕の姿に、私たちはイエス・キリストを見ます。「わたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)。イエスがただ独り黙って裁きを引き受けられたのは、この出来事が人の裁きではなく、神の裁きであったからです。さらに「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)とある通り、イエスは、神のご意志を自分のものとして私たちの罪を負ってくださいました。イエスこそ、ただ独りの、真実な私たちの王です。