2025年4月13日(日) 復活前第1主日・棕梠の主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 307(2回)
主の祈り
交読詩編 詩編22:1~24
祈 祷
賛 美 315
日本基督教団信仰告白
聖 書 マルコによる福音書第15章21~41節
子ども説教
説 教 「神の子が十字架に」
賛 美 313
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
主イエスは、十字架刑に定められ、鞭で打たれ、外へ出され引かれていきました。恐らくイエスは弱っており、十字架を負うことができなかったのだと思います。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせ」ました(21節)。何の説明もないので、この人たちはマルコ福音書の教会のメンバーと考えられます。シモンは思いがけず、イエスの十字架を負うことになりました。やがて福音を信じて救われたのでしょう。神は不思議なことをなさいます。
イエスは、ゴルゴタというところで十字架につけられました。朝の9時でした。二人の強盗もイエスの右と左に十字架につけられました。そのとき、そこにいた人々はイエスを侮辱して言いました。「十字架から降りて自分を救ってみろ」(30節)。さらに祭司長たちや律法学者たちもイエスを侮辱して言いました。「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(32節)。この人たちは、イエスがメシア(キリスト)なら、神が助けてくださるはずだ、と考えていましたから、十字架につけられたままのイエスをののしっていました。
けれども私たちは知っています。イエスは、メシア(キリスト)であり、イスラエルの王であるから、十字架から降りないということを。もし、十字架から降りるならば、私たち人間の救いは実現しないからです。
二人の強盗もイエスを侮辱しました。こうして、イエスは徹底的に人々から捨てられ、侮辱されました。その間、イエスはずっと黙っておられました。本当に必要なことだけを語られました。それでは、イエスは沈黙しておられる間、何をしておられたのでしょうか。それは、十字架の上で語られた言葉から分かります。
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(33~34節)。これは本日の交読詩編でも祈った、詩編第22篇の冒頭の御言葉です。イエスはずっと祈っておられました。神を呼び、神を礼拝しておられました。イエスの周りにいる人々は、イエスを侮辱していましたが、イエスは神を仰いでおられました。
恐らく「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、私たちは言いたくないだろうと思います。キリスト者であっても、苦しいとき、「信じていたって、何にもならないではないか」と考えて、神を呼ぶことを止めてしまうことがあります。イエスは人からだけではなく、神から見捨てられ、神から裁かれておられる。その絶望の立場は、私たちには計り知れません。イエスは罪人として神に見捨てられる。主イエスはそこに身を置きながら、なお「わが神」と呼んでおられます。これは、神への信頼と絶望の合わさった叫びです。
イエスが、ついに息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました(38節)。「上から」裂けたことが大切です。神の御業ということです。神殿の至聖所と聖所を隔てる幕が裂けて、すべての人が神と出会うことができる道が、イエスの十字架によって開かれました。このことを証ししているのが、異邦人の百人隊長の信仰告白です。「本当に、この人は神の子だった」(39節)。イエスを十字架にかけたローマ兵の口から、イエスは神の子という言葉が出るとは、本当に驚くべきことです。私たちも、十字架から降りようとなさらないイエスを「キリスト。私たちの王。神の子」と信じ、信仰を告白します。