2025年4月20日(日) 復活節第1主日・復活日
イースター礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   325
主の祈り
交読詩編  詩編147:1~11
祈  祷
賛  美(聖歌隊)  54年版496「うるわしの白百合」
日本基督教団信仰告白
聖  書   マルコによる福音書第16章1~8節
子ども説教
説  教  「死人のうちより甦り」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   334 
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕


〔説教要旨〕

 イースターおめでとうございます! 主イエスは死者の中から復活されました。イエスは生きておられます。
 今年のレントでは、マルコ福音書の御言葉を通して、イエスの受難と十字架の出来事に耳を傾けてきました。今日は復活の出来事です。本日の聖書箇所にはマルコ福音書だけに書かれていることがあります。それは、若者の姿をした御使いの言葉の中にあります。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(7節)。ここで、「ペトロに」と、語られていることです。これは他の福音書にはありません。神の御使いですから、自分勝手に話しているはずはありません。主イエスから託された言葉を語っているのです。主イエスはペトロのことを心にかけておられ、「私は先にガリラヤへ行って、あなたを待っているよ」と告げておられるのです。
 週の初めの日の朝、イエスのお体が納められた墓に向かったのは女の弟子たちでした。イエスのそばにずっといた弟子たちは、墓に行くことさえできませんでした。弟子たちの中でいつも一番と目されているペトロも同様でした。振り返ってみれば、ペトロは失敗の多い人と言えると思います。主イエスが初めて受難と死と復活の予告をされたとき、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めました。逆にペトロはイエスから「あなたは神のことを思っていない」とお叱りを受けました(マルコ8:33)。ゲツセマネの園で、イエスから「目を覚まして祈っていなさい」と言われたのに、眠り込んでしまいました(マルコ14:32以下)。イエスがユダヤ当局の人々に捕らえられたとき、ペトロは逃げましたが、後でイエスがおられる大祭司の屋敷の中庭に入って行きました。けれども、イエスが予告された通り「わたしはあの人のことは知らない。あの人の仲間ではない」と3度否定しました(マルコ14:66以下)。それは取り返しのつかないことでした。
 ペトロは私たち人間を代表しているのです。ペトロは私、私はペトロ。そのペトロを名指しで主イエスが招いておられるとは、イエスは、今、あなたの名を呼んでくださっているということ。ペトロの弱さも罪も過ちも、イエスはすべてご存じで、初めから赦し、愛してくださっていました。取り返しのつかないことをした私たち一人ひとりとイエスとの関係が回復するために、イエスがまず私たち一人ひとりの名を呼んで「待っているよ」と言ってくださいます。その招きに応答することが求められています。
 マルコ福音書は、マルコがペトロの話を聞いて書いたと言い伝えられています。ペトロはこの主イエスの言葉に、本当に心を動かされたのではないでしょうか。「こんな私を、主イエスはお見捨てにならなかった。だから、あなたも救われる」とペトロは証ししたのではないでしょうか。
 もう一つ、マルコ福音書のユニークなことを大切にしたいのですが、それはマルコ福音書の終わり方です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。9節以下は付け加えられたものであって、本来は8節で福音書は終わっているのです。確かに、イエスが復活されたとは、まことに恐るべきことではないでしょうか。先に見ましたように、先立つイエスの赦しと愛を信じられるから、イエスの復活は喜びであり、希望であり、私たちは立ち上がることができます。神が神であられる復活の出来事の恐るべきことを忘れてはならない。しかし、女の弟子たちもイエスの愛を信じ、恐れを乗り越えて、証言したからこそ、こうして復活の出来事が書き記されたのです。