2025年4月27日(日) 復活節第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   328
主の祈り
交読詩編  詩編103:1~13
祈  祷
賛  美   333
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第16章9~20節
子ども説教
説  教  「新しい言葉を語る喜び」
賛  美   564
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 前回、本来のマルコによる福音書は第16章8節で終わっていると申しました。後の部分は、教会が付け加えたと考えられています。この9節以下も、マルコ福音書の言葉として語り継がれてきました。ここには素晴らしい言葉が記されています。
 その一つが17節にあります。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」。イエスの弟子は、新しい言葉を語る存在になります。どういう言葉でしょうか。外からの言葉、天からの言葉、神からの言葉です。生ける神からの、人を新しく生かす言葉です。
 横山義孝(よしなり)先生のことをお話したいと思います。西川口教会の初代牧師の横山先生は4月16日に神のみもとに召されました。98歳でした。横山先生は、ひたすらに主イエスを愛して生き抜かれました。もし横山先生がここに教会を建ててくださらなかったら(もちろん、牧師一人だけですることではありませんが)、私は、西川口教会に導かれることもなく、今ごろ、どうなっていたか分かりません。主イエスを愛して福音を語り、生き抜かれた横山先生でしたが、川口の伝道を開始して10年を過ぎた頃、行き詰まりを感じ、苦しんでおられました。「どうしたらいいのか」と祈り続けていたとき、復活のイエス・キリストが横山先生を訪れてくださった、という体験をされました。横山先生は、主イエスが私の内に生きておられるという確信が与えられ、心が燃やされ、宣教のビジョンが与えられました。このことは何度も証ししておられました。
 本日の聖書箇所のもう一つ素晴らしい言葉は、20節にあります。「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。イエスは、弟子たちの語る言葉が真実であることを、明らかにしてくださる。何という力強い出来事であり、約束でしょうか。「語る」言葉とありますが、必ずしも、口から出る言葉に限定されないと思います。行いや存在を通して語ることがあります。神が、語る言葉が真実であることを明らかにしてくださいます。
 マルコ福音書でその担い手となった弟子たちは、どのような人だったでしょうか。本日の聖書箇所で目につくのは「信じなかった」という句で、3度繰り返されています(11節、13節、14節)。復活は、人間にはとても信じ難いことなのは、よく分かります。しかしイエスは「そうだよ、分かるよ。仕方ないね」とはおっしゃっておられないのです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)。弟子たちは、主イエスが苦難と死と復活の予告をしておられたのに、復活のイエスにお会いした人の言葉を信じませんでした。それは不信仰であり頑なな心です。イエスはそれを見過ごすことはなさいません。イエスの叱責は祝福への招きなのです。「不信仰にとどまって、頑なな心のままであってはならない。わたしの復活のいのちの祝福の中に入りなさい!」と。
 さらに彼らに(私たちに)使命を与えられました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)。17節以下には、悪霊を追い出し、蛇をつかみ、毒の害を受けず、病の癒しが起こる、との約束があります。率直に言って、自分にはできない…と思います。では、どういうことなのでしょう。弟子たち(私たち)は、出かけて行って、悪霊や蛇や毒の害に苦しんでいる人、病んでいる人のところへ行くということ。死に勝利した主のいのちの祝福を告げ知らせるということなのです。