2025年5月4日(日) 復活節第3主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編34:12~23
祈 祷
賛 美 58
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第8章31~47節
子ども説教
説 教 「誰の言葉を聞いているか」
賛 美 444
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「神に属する者は神の言葉を聞く」(47節)。これは主イエスのお言葉です。イエスはこうも言っておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31~32節)。イエスの言葉は神の言葉です。ここでは「わたしの言葉にとどまるならば」とあります。聞いて終わりではなく、イエスの言葉に聞いて従う。その人はイエスの弟子です。イエスの弟子は真理を知り、その真理が自由をもたらすというのです。ヨハネ福音書では、真理とはイエスご自身です(ヨハネ14:6)。イエスの言葉にとどまるとき、イエスは私たちを自由にしてくださるのです。
このときの自由とは、何をしてもいいということではありません。イエスは続けて「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。…もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(34、35節)と言われます。「子」とは神の独り子であるイエスご自身のことを言っておられます。イエスの言われる自由とは、罪の奴隷状態からの解放なのです。
これらのことを、イエスは御自分を信じて集まって来たユダヤ人に向かって語っておられます(31節)。ところが、その人々にイエスは「あなたたちはわたしを殺そうとしている」と2度も言っておられます(37節、40節)。いったいどういうことでしょう。
イエスの言葉には二重の意味があるので、それが分からないと語られていることが理解できません。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」(38節)。「父」が2回出て来ますが、どちらも血のつながった「父」を指してはいません。初めの「父」は天の父を、次に語られる「父」は、その後のイエスの言葉を見ますと、悪魔を意味しています。「あなたたちは、悪魔である父から出た者…悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がない…」(44節)。私たちがイエスから「あなたたちの父は悪魔だ」と言われたら、どう反応するでしょう。何という言葉でしょう。イエスはご自分を信じた人々にこう語られたのです。それはどのような思いからなのでしょうか。
ヨハネ福音書と関わりの深いヨハネの手紙一第3章8節に「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」とあります。またヘブライ人への手紙第2章14~15節に「イエスもまた同様に、これらのものを備えられました〔イエスが人となられたということ〕。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」とあります。イエスが人としてお生まれになられたのは、私たち人間の救いのためですが、それは別の言い方をすれば、悪魔を滅ぼすためでありました。そのことによって、イエスは私たちを罪と死と悪魔の支配から解放してくださるのです。
イエスと悪魔との対峙は命がけです。そのためにイエスは十字架で死なねばなりませんでした。私たちの救いのため、イエスが退かれることはありません。イエスの心には、私たちへの愛が燃えていると信じます。今日のイエスの言葉からは、私たちを悪の力から解放しようとする激しい愛を感じます。
それほどまでに愛されている私たちです。愛するからこそ、イエスは私たちに自由をもたらしてくださいました。その自由とは、イエスのように愛において仕える自由です。イエスのように、「御心が成りますように」と祈り、神の御心をわが心として生きる自由です。神の言葉を聞いて自分を献げていく自由です。