2025年5月11日(日) 復活節第4主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   327
主の祈り
交読詩編  詩編119:33~40
祈  祷
賛  美   546
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第8章48~59節
子ども説教
説  教  「死を超える主の言葉」
賛  美   505
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 本日の午後は、春日部にある西川口教会の墓地の前で礼拝をささげます。既に地上の生涯を終えられた、私たちの家族、信仰の友、先輩を記念して礼拝をします。そのため今朝は、この主日礼拝に出席してくださっている方も多くおられます。
 では、私たちが、礼拝をささげるとはどういうことなのでしょう。お墓の前で礼拝をするとはどういうことなのでしょう。
 礼拝では何をしているのでしょう。まさに今、私がしているように、礼拝では、神の言葉が語られ、聞かれます。讃美歌を歌って神をほめたたえます。それよって、私たちは礼拝で、生きておられる神とお出会いするのです。だから、どこにいても礼拝できますし、お墓の前でも礼拝できるのです。
 先ほど、主イエスのお言葉を聞きました。イエスはこう言われました。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(51節)。何という言葉でしょう。キリストの教会とは、このことを本気で信じている人々の集まりなのです。他の人から「頭がおかしいのではないか」と思われるかもしれませんが。けれども、信じる人には、それは本当に希望の約束なのです。
 主イエスが「決して死ぬことがない」と言われましたが、これは、体が死なないということではありません。ここにおられる人は皆、地上の生涯を終えます。そして、私たちの大切な人の死は、大きな悲しみ、痛みです。恩師のK先生が妻を亡くした時、「自分の腕がもがれ、そこから、どくどくと血が流れ出るようだ」、と言われました。仲間の先生に妻の死を知らせるメールを送ったら、その先生が返事をくださった。「イエスがあなたの妻の手を取って『起きなさい。よみがえりの朝だよ』と言ってくださる」と。それで自分は立ち直ることができた、と言われました。復活の主イエスによって、復活の命に起こしていただける、それが希望の約束です。ですから、イエスが「決して死ぬことがない」と言われるのは、神に結ばれている者は、決して滅びないということ。私たちと神との関係は、肉体の死においても失われることはなく、揺らぐことはないのです。
 主イエスの言葉を聞いているユダヤ人たちは、そのことが理解できませんから、会話がかみ合いません。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ」(52節)と言い返します。死んだら終わりではないか、という考えです。彼らはイエスに「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」(53節)と言いました。
 イエスは、ヨハネ福音書第8章においても、自分が何者であるか、語り続けておられるのです。「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)。「(わたしは)わたしをお遣わしになった父と共にいる」(同8:16)。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(同8:31)。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(同8:36)と。
 イエスは彼らに究極の言葉を語られました。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(58節)。「わたしはある」とは、ご自分が神であるという宣言です。それを聞いてユダヤ人は神を冒瀆していると思い、イエスを石で打とうとしました(59節)
 私たちにもイエスは語っておられます。ですから、イエスの言葉を受け入れるかどうか、問われています。ユダヤ人ばかりでなく、教会においても「信仰の父」として大切にしているアブラハムは「わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだ」(56節)。わたしたちも、キリストの日を待ち望むことができます。復活の朝が来ることを信じ、その喜びを先取りして生きることができるのです。