2025年5月18日(日) 復活節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   205
主の祈り
交読詩編  詩編27:7~14
祈  祷
賛  美   60
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第9章1~12節
子ども説教
説  教  「苦難の意味と神の業」
賛  美   528
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕
 本日与えられた聖書箇所の7節に「シロアムの池」とありますので、イエスと弟子たちはエルサレムの町にとどまっていたことが分かります。イエスは、弟子たちと共に歩いていたとき、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちはイエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。「ラビ」とは律法の教師のことです。「律法の専門家であるならば、答えてくださるはず」という思いで問うたのでしょう。旧約聖書の律法に、わたしたちはなじみがありませんが、現代日本社会でもイエスの弟子たちと同じような考え方があります。それは因果応報の考え方です。善い行いには善い結果があり、悪い行いには悪い結果がある。病気などの不幸が起こるのは、その人が悪いことをしたから、あるいは親が悪いことをしたからである、だからそうなったのだ、という考え方です。
 イエスのお答えは驚くべきものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。ここで誤解してはならないのは、神の業が現れるために盲目になったのではないことです。神は、人にはどうすることもできない不幸なこと―盲目で生まれてきたとか、重い病気―を顧みてくださるということです。このイエスの言葉によって、数え切れないほどの多くの人が救われてきました。西川口教会にも、このイエスの言葉によって救われた人がおります。
 イエスはご自分の言葉を目に見える仕方で明らかになさいました。この盲目の人の視力を回復させてくださいました。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われました。イエスがなさったこの行為について、今はその意味は分かりません。大切なのは、この盲目の人がイエスの言葉にそのまま従ったことです。この人はイエスに「目を見えるようにして下さい」と願い出ていません。一方的にイエスが彼を訪れ、お言葉をかけてくださった。この人はイエスの言われたとおり、シロアムの池に行って洗いました。そうしましたら、何と目が見えるようになったのです(7節)。生まれつき目が見えず、光が閉ざされていたこの人が、視力を与えられて、世界はどのように見えたのでしょう。奇跡が起こりました。
 彼は元にいたところに戻ってきました。人々は、彼の目が見えるようになっていたので、驚いて言いました。「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」。「いや違う。似ているだけだ」と。彼は「わたしがそうなのです」と言いました(9節)。この「わたしがそうなのです」は、原文では、ヨハネ福音書第8章58節の「わたしはある」というイエスの言葉と同じなのです。イエスの言葉と響き合っています。ヨハネ福音書は、マタイ・マルコ・ルカ福音書と異なり、イエスのなさった奇跡をもとに、人々との長い対話が続きます。この第9章もそうです。イエスによって視力を回復されたこの人は、人々の前で「わたしがそうなのです」とスッと立って、はっきりと語っており、その姿勢がずっと貫かれているのが印象的です。この人ははっきりと「あの方は預言者です」(ヨハネ9:17)。「ただ一つ知っているのは目の見えなかった私が、今は見えるということです」(同9:25。有名な讃美歌「アメイジンググレイス」の歌詞になっている)と言いました。物乞いをして生きるしかなく、光を失っていたこの人が、光を取り戻し、本来の自分を取り戻しました。
 神が造られた本来の自分となって生きている、それもまた「神の業が現れた」と言えるのではないでしょうか。