2025年6月1日(日) 復活節第7主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   153
主の祈り
交読詩編  詩編94:1~15
祈  祷
賛  美   236
使徒信条
聖  書   コリントの信徒への手紙二第5章1~10節
子ども説教
説  教  「再び来られるキリスト」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   474
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 使徒信条は、三位一体の神(父なる神/子なる神イエス・キリスト/聖霊の神)への信仰告白となっています。今日取り上げる「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん」は、第2部(イエス・キリストへの信仰告白の部分)で、ここだけが将来のことを語っています。キリストの再臨は、神の救いが完成するとき、私たちの救いも完成するときです。
 主イエスは、十字架におかかりになる前に、エルサレムの神殿で、世の終わりに起こることを話されました。「私がキリストだ」と言う人が現れる、戦争が起こる、民族や国同士で敵対する、飢饉や地震が起こると語り、それは「産みの苦しみの始まりである」と言われました(マタイ24:8)。これらは、現代の世界も日本でも起こっています。現代は、科学が進み、例えば、どのようにして地震が起こるか、ある程度解明されています。しかしイエスがおっしゃったのは科学のことではなくて、神のまなざしから見た出来事の意味です。これらは「産みの苦しみの始まり」で、神の命と祝福だけが満ちる新しい世界が産まれるしるしです。終わりのとき教会は迫害されます。そのことを通して、福音があらゆる人々に宣べ伝えられます。そして終わりが来ます。太陽も月も星も天体も揺り動かされ、主イエスが天の雲に乗っておいでになります(マタイ24:29~30)。私たちは、聖餐式のたびに歌っています。「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国が来ますように」(讃美歌21-81番)。「マラナ・タ(主よ、来てください)」(コリント一16:22)と歌って、キリストが再び来られるときを待ち望んでいるのです。
 コリントの信徒への手紙二第5章には、キリストを待ち望んで生きる信仰者の姿が示されています。使徒パウロの言葉です。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。「幕屋」とは「テント」です。私たちの地上の生活は、テントを張って旅をするようなものなのです。地上の生活も地上の幕屋も永遠ではありません。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。私たちの地上の歩みには苦しみが伴います。嘆き悲しみがあります。異邦人の使徒として召されたパウロは福音宣教の旅をしましたが、迫害に遭い、鞭打たれたことも、獄に入れられたこともありました。絶望も味わい、肉体のとげに悩まされてもいました。私たちもそれぞれ、苦しみのゆえにもだえています。それは「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいから」(4節)、うめいているのだ、とパウロは語ります。つまり、私たちのうめきには、希望が込められているのです。そのようにしてくださったのは、神であり、その保証として聖霊が与えられています(5節)。だから「心強い」(6、8節)とパウロは2度繰り返して語っています。ヨハネ福音書のイエスの言葉を思い起させられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。主の勝利にあやかって今を生きます。
  「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(10節)のであり、だれも裁きを免れることはありません。しかし、恐れることはありません。裁き主であるキリストは、私たちのために死んで復活した方であり、弁護者でもあるのです。私たちは、キリストの再臨・救いの完成を「マラナ・タ」と歌いつつ待つのです。