2025年6月15日(日) 聖霊降臨節第2主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 17
主の祈り
交読詩編 詩編24篇
祈 祷
賛 美 543
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第9章13~23節
子ども説教
説 教 「もう大人ですから」
賛 美 520
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
今日の箇所は、生まれつき盲人であった人の目を主イエスが癒してくださった出来事の続きです。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と語られて、目を癒し、視力を回復させてくださいました。
最近、あるエッセイを読みました。それを書かれたのは盲人の方です。こういう内容です。マスクをしていると子どもたちが人の表情が読めないので問題だと盛んに言われていたけれども、自分はそんなことはない、と思っていた。自分が相手の状態を察するには、主に声を頼りにする。相手の発声の仕方、声の質、抑揚や使う言葉の種類などから、年齢や体調、気分、ときには大まかな職業のジャンルの見当もつける。相手がマスクをしていてもしていなくても、コミュニケーションが変わったとは思わなかった、というのです。「なるほど」と思い、声だけでずいぶん多くのことが分かることを知りました。
主イエスに目を癒していただいた人も、生まれつきの盲人ですから、同じように音や声を頼りにして生きてきたかもしれません。イエスのお声を聞き、その言葉に込められた思いを深く受け取ったのではないでしょうか。だから、イエスの言葉に従うことができました。目の癒しという神の業を体験しました。この人は、視力が回復しましたけれども、自分に語りかける相手の声や言葉に対する鋭い感覚は、なお持ち続けていたと思うのです。
盲人であったのに目が見えるようになっていたので、周囲の人が驚き、質問します。癒された人は、自分の身に起こった事実をそのまま語ります。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」(ヨハネ9:11)。主イエスは身を隠しておられました(ヨハネ9:12)。
人々は、この癒しについて判断を仰ぐべく、目が見えるようになった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました(13節)。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことでした(14節)。当時、安息日は仕事をしてはいけないことになっており、癒しは「仕事」と見なされていました。ファリサイ派の人々は、律法に厳格で、祈り、断食、施し、身を清めること、安息日を厳格に守っています。ですから、イエスがなさった癒しを認めることはできませんでした。しかし、目を癒していただいた人は、たった独りしっかりと立ち、自分の言葉で我が身に起きたことを、ありのまま伝えています。イエスのことをどう思うか、と問われたときは、「あの方は預言者です」(17節)、つまり、神から来られた人であると、はっきりと言いました。
それでも、イエスのなさったことを認めようとしないユダヤ人(ユダヤの指導者たち)は、その人の両親を呼び出して取り調べました。両親は答えます。「どうして今、目が見えるようになったか…だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」(21節)。両親はユダヤ人を恐れてこのように答えたのですが、期せずして、その言葉は真理を語っています。
信仰における「大人」とはどのような人でしょうか。律法を厳格に守り、指導的立場にある人々が、イエスのなさったことを認めようとせず、イエスを罪人と決めつけ、目の見えなかった人のことさえも見下しています。一方、目を見えるようになった人は、しっかりと立ち、臆することなく、だれにも頼らず、自分の身に起こった神(イエス)の業を、自分の言葉で証ししています。このような人が信仰の大人ではないでしょうか。